幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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前記事の抜粋を皮切りに、続きを考えてみようと思う。
保坂和志氏の小説を読んでいて独特な充実感がある所から氏の名前を出した。
氏のエッセイからも全体が硬質ながら(それゆえ?)確実な強度をこちらは感じ取る。
まずは氏の小説作法について書いてみよう。
保坂氏の小説は「言葉を解析的に使う」にふさわしく、描写が細かい。
ただその描写の緻密さが、独特な興味に導かれて発揮されているように思う。
印象を言えば、緻密な描写そのものが一般性に回収されることはないが、
その描写の一つひとつから立ち上がる全体がある普遍的な風合いを帯びてくる。
「小津安二郎的」と小説の帯の紹介文に書かれているのを見たことがある。
小津映画は自分は映画評でしか話に聞いたことがなく、実際に観たことがない。
だから映画評からの想像でしかないが、思い付く形容は次のようなものだ。
ほっこり、人情味のある、暖かく穏やかな、太平楽な、何気なく過ぎる日常。
その同じような雰囲気を保坂小説に感じるとして、
そしてその雰囲気を作り出す鍵が「解析的な言葉の使い方」にあると思うのだ。
恐らく小津映画(の脚本?)は同じようには書かれていないはずで、
その差は「時代の差」にあるのだと思う。
ここから話がずれていく予感がするので、そのような予告だけしておく。
情報技術の発達した現代社会では伝達される情報量がとてつもなく大きい。
文章だけであった時代から、音声、動画、そしてあらゆる形式のデータ。
世界広しと言えど、現地に行かずとも画面を通じて世界を見渡せる。
この知覚(主に視覚、聴覚)範囲の拡大は、知覚の意味を変えたはずだ。
例えば、ピラミッドを砂漠にいる中で見る場合とテレビで見る場合に、見る人の認識の違いはいくらかあるだろう。
やはり現地で見る臨場感がたまらないという感覚もあるだろうし、手軽に世界の他の遺跡と並べて見られることで夢が広がると思うかもしれない。
ここでは文章から風景を想像することと(画面上であれ)風景そのものを見ることの違いについて考えてみたい。
息を呑むほどの大自然であれ価値ある古代遺跡であれ、風景そのものの強度があるとすれば、その場にいる人間は誰もが同じように感じられるはずだ。
しかし風景から人間が受け取るのは強度だけでなく、意味もある。
例えば意味の中には希少性があるだろう。
希少性は「意味(物語)を自分に引きつける好材料」になるかもしれない。
写真を撮ることは征服感を満たすと聞いたことがあるが、自分だけが見ることが出来る(と思える)風景は自分に固有の結びつき方をするだろう。
しかしその風景を世界中の誰もが見られるとすれば、希少性という意味の価値は薄れる。
つまり、情報化手段とその転送能力の拡大、これに交通手段の発達を加えてもよいが、これらによる世界へのアクセス可能性の拡大が「一人の人間の固有性」感覚を希薄化させているのだ。
夢は広がるかもしれない、しかしその夢は自分だけのものだろうか?
この不安を手っ取り早く解消するのは、身体感覚の充実だろう。
頭でなく、この自分の身体が感じるものは自分独自としか言いようがない。
それは確かなのだが、それを長続きさせるのは難しい。
なぜならば、世界は「頭の中で考えているように」動いているからだ。
正確には、そのような世界の回り方を理想とするようになっている。
身体感覚の充実のみを永遠に追求するのは要するに動物だ。
それは文明の発達した人類社会で公然と振る舞える態度ではない。
文明ありき、意味ありきだからこそ、身体感覚の充実(のうち個的なもの)は私的な領域に秘められてきた。
恐らくこの「文明の前提」は揺るがないと思う。
だから上で述べた不安の解消、すなわち個別感覚を取り戻すためには、頭の使い方に目を向ける必要がある。
自分で書いていてよく分からなくなってきた。
大枠の流れが最初にあったはずだが、途中の細部の記述に引っぱられると見失う。
文章を書く練習も兼ねているのでここまで書いた分は残しておく。
次回は路線の修正から入ろうと思う。
筆を置く前に今日たどり着きたかったことだけ書いておく。
保坂氏の小説の細部描写は、風景描写や会話する人々の何気ない仕草やら行き交う視線やら語り手の思考の展開やらが無秩序に混在しており、その一つひとつから意味を感じ取ることは難しい。
(語り手の思考の断片には興味深いものがいくつもあって、自分はそれもとても好きなのだがここではそれはおいておく)
だがそのような時々ムダにも思える細部を逐一読んで想像していく過程に、大きな効果があると思うのだ。
たとえば自分が朝起きてから会社に向かって家を出るまでの、目線や身体の動きや思考の移り変わりなどは、普段の生活リズムからすれば全く意識化されない。
それを書き出せと言われた時、できないことはないだろうが面倒だ、と思うだろう。
考えなくてもできていることをわざわざ言葉にすることはないし、まどろっこしいだけだと。
しかし実際にそれをやってみると分かるのだが(と言っているこれは想像だが)、本当にいつもやっていることだけを書き出しただけでも、その文章をあらためて眺めると違う印象を受けるのだ。
(自分の行動を書き出す間に連想がはたらくことももちろん面白いのだが、ここでは敢えてそれを省いている)
これは「自分の行動を意識に落とし込んだ」ことになるのだと思う。
身体の、脳への翻訳。
…違う話になっているかもしれない。
小説の内容は、もともと自分が経験したことではないのだ。
文章から情景が思い浮かぶというのは読み手が既に似た様な経験をどこかでしているからなのだが、それらの断片をつなぎ合わせてできる「流れ」=物語は読み手にとって初経験である。
その情景描写が細部にわたるところに意味がある、という話をしていた。
「細部だからよい」という言い方にすれば、もしかすると普段自分たちは日常で遭遇する情景を淡々と眺め過ぎているかもしれない、という認識が生まれる。
それは「自分の日常も細かく記述すれば劇的になる」といった意味ではなくて、自分をとりまく情報の量が多過ぎて自分の内に深く取り入れずにやり過ごしているけれど、一部分でも深く取り入れてみると(その内容に関わらず)何やら個的なもの、すなわち強度を感じる、といった意味だ。
「考えることが好きだ」と思っているからこんなことが言えるというだけだろうか。
いや、それは違う。
細部にわたる描写の一つひとつを頭に浮かべながら小説を読むというのは、自分の生活の細かいところを捉え直す、ひいては「感覚を拓く」ということではないのか。
おそらく「自分の中の深いところで出来事を感じる」経験自体に喜びをおぼえるのであって、保坂氏の小説はその感覚を呼び起こしてくれるのではないか。
なんだかとっても散漫な記事になった。
ブログを変えてからしばらくは「4行スタイル」を続けていたのだが、
それでなんとなく整って見えてはいたのだが、
リアルタイムで思考を進めながら書くのには向いていないのかもしれない。
と言いつつ今回のような書き方ではまるで整った文章にはならない。
この加減が難しいところだが、模索を続けていこうと思う。
思考で頭をぐるぐる回すことが目的か、思考をきちんと形に残すことが目的か。
そのどちらも達成できれば理想的なのだが。
鍵は、保坂和志のいう「解析的に言葉を使う」ことだと思う。「正しい思考」のあるべき姿についての記述を試みているのであった。
状景を、現象を、正確な言葉をもって記述する。
上っ面をなぞる表現使用に慣れると自分の言葉から強度が遊離する。
かちりと噛み合う歯車を一つひとつ拵え、絡繰りを組み上げていく。
保坂和志氏の小説を読んでいて独特な充実感がある所から氏の名前を出した。
氏のエッセイからも全体が硬質ながら(それゆえ?)確実な強度をこちらは感じ取る。
まずは氏の小説作法について書いてみよう。
保坂氏の小説は「言葉を解析的に使う」にふさわしく、描写が細かい。
ただその描写の緻密さが、独特な興味に導かれて発揮されているように思う。
印象を言えば、緻密な描写そのものが一般性に回収されることはないが、
その描写の一つひとつから立ち上がる全体がある普遍的な風合いを帯びてくる。
「小津安二郎的」と小説の帯の紹介文に書かれているのを見たことがある。
小津映画は自分は映画評でしか話に聞いたことがなく、実際に観たことがない。
だから映画評からの想像でしかないが、思い付く形容は次のようなものだ。
ほっこり、人情味のある、暖かく穏やかな、太平楽な、何気なく過ぎる日常。
その同じような雰囲気を保坂小説に感じるとして、
そしてその雰囲気を作り出す鍵が「解析的な言葉の使い方」にあると思うのだ。
恐らく小津映画(の脚本?)は同じようには書かれていないはずで、
その差は「時代の差」にあるのだと思う。
ここから話がずれていく予感がするので、そのような予告だけしておく。
情報技術の発達した現代社会では伝達される情報量がとてつもなく大きい。
文章だけであった時代から、音声、動画、そしてあらゆる形式のデータ。
世界広しと言えど、現地に行かずとも画面を通じて世界を見渡せる。
この知覚(主に視覚、聴覚)範囲の拡大は、知覚の意味を変えたはずだ。
例えば、ピラミッドを砂漠にいる中で見る場合とテレビで見る場合に、見る人の認識の違いはいくらかあるだろう。
やはり現地で見る臨場感がたまらないという感覚もあるだろうし、手軽に世界の他の遺跡と並べて見られることで夢が広がると思うかもしれない。
ここでは文章から風景を想像することと(画面上であれ)風景そのものを見ることの違いについて考えてみたい。
息を呑むほどの大自然であれ価値ある古代遺跡であれ、風景そのものの強度があるとすれば、その場にいる人間は誰もが同じように感じられるはずだ。
しかし風景から人間が受け取るのは強度だけでなく、意味もある。
例えば意味の中には希少性があるだろう。
希少性は「意味(物語)を自分に引きつける好材料」になるかもしれない。
写真を撮ることは征服感を満たすと聞いたことがあるが、自分だけが見ることが出来る(と思える)風景は自分に固有の結びつき方をするだろう。
しかしその風景を世界中の誰もが見られるとすれば、希少性という意味の価値は薄れる。
つまり、情報化手段とその転送能力の拡大、これに交通手段の発達を加えてもよいが、これらによる世界へのアクセス可能性の拡大が「一人の人間の固有性」感覚を希薄化させているのだ。
夢は広がるかもしれない、しかしその夢は自分だけのものだろうか?
この不安を手っ取り早く解消するのは、身体感覚の充実だろう。
頭でなく、この自分の身体が感じるものは自分独自としか言いようがない。
それは確かなのだが、それを長続きさせるのは難しい。
なぜならば、世界は「頭の中で考えているように」動いているからだ。
正確には、そのような世界の回り方を理想とするようになっている。
身体感覚の充実のみを永遠に追求するのは要するに動物だ。
それは文明の発達した人類社会で公然と振る舞える態度ではない。
文明ありき、意味ありきだからこそ、身体感覚の充実(のうち個的なもの)は私的な領域に秘められてきた。
恐らくこの「文明の前提」は揺るがないと思う。
だから上で述べた不安の解消、すなわち個別感覚を取り戻すためには、頭の使い方に目を向ける必要がある。
自分で書いていてよく分からなくなってきた。
大枠の流れが最初にあったはずだが、途中の細部の記述に引っぱられると見失う。
文章を書く練習も兼ねているのでここまで書いた分は残しておく。
次回は路線の修正から入ろうと思う。
筆を置く前に今日たどり着きたかったことだけ書いておく。
保坂氏の小説の細部描写は、風景描写や会話する人々の何気ない仕草やら行き交う視線やら語り手の思考の展開やらが無秩序に混在しており、その一つひとつから意味を感じ取ることは難しい。
(語り手の思考の断片には興味深いものがいくつもあって、自分はそれもとても好きなのだがここではそれはおいておく)
だがそのような時々ムダにも思える細部を逐一読んで想像していく過程に、大きな効果があると思うのだ。
たとえば自分が朝起きてから会社に向かって家を出るまでの、目線や身体の動きや思考の移り変わりなどは、普段の生活リズムからすれば全く意識化されない。
それを書き出せと言われた時、できないことはないだろうが面倒だ、と思うだろう。
考えなくてもできていることをわざわざ言葉にすることはないし、まどろっこしいだけだと。
しかし実際にそれをやってみると分かるのだが(と言っているこれは想像だが)、本当にいつもやっていることだけを書き出しただけでも、その文章をあらためて眺めると違う印象を受けるのだ。
(自分の行動を書き出す間に連想がはたらくことももちろん面白いのだが、ここでは敢えてそれを省いている)
これは「自分の行動を意識に落とし込んだ」ことになるのだと思う。
身体の、脳への翻訳。
…違う話になっているかもしれない。
小説の内容は、もともと自分が経験したことではないのだ。
文章から情景が思い浮かぶというのは読み手が既に似た様な経験をどこかでしているからなのだが、それらの断片をつなぎ合わせてできる「流れ」=物語は読み手にとって初経験である。
その情景描写が細部にわたるところに意味がある、という話をしていた。
「細部だからよい」という言い方にすれば、もしかすると普段自分たちは日常で遭遇する情景を淡々と眺め過ぎているかもしれない、という認識が生まれる。
それは「自分の日常も細かく記述すれば劇的になる」といった意味ではなくて、自分をとりまく情報の量が多過ぎて自分の内に深く取り入れずにやり過ごしているけれど、一部分でも深く取り入れてみると(その内容に関わらず)何やら個的なもの、すなわち強度を感じる、といった意味だ。
「考えることが好きだ」と思っているからこんなことが言えるというだけだろうか。
いや、それは違う。
細部にわたる描写の一つひとつを頭に浮かべながら小説を読むというのは、自分の生活の細かいところを捉え直す、ひいては「感覚を拓く」ということではないのか。
おそらく「自分の中の深いところで出来事を感じる」経験自体に喜びをおぼえるのであって、保坂氏の小説はその感覚を呼び起こしてくれるのではないか。
なんだかとっても散漫な記事になった。
ブログを変えてからしばらくは「4行スタイル」を続けていたのだが、
それでなんとなく整って見えてはいたのだが、
リアルタイムで思考を進めながら書くのには向いていないのかもしれない。
と言いつつ今回のような書き方ではまるで整った文章にはならない。
この加減が難しいところだが、模索を続けていこうと思う。
思考で頭をぐるぐる回すことが目的か、思考をきちんと形に残すことが目的か。
そのどちらも達成できれば理想的なのだが。
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「正しい思考」について考えてみる。
この正しさは、もちろん論理的な整合性を指すものではない。
言い換えれば、「あるべき仕方で為されている」だろうか。
では「あるべき」とはどういう状態か?
表現そのものを細かく割っていけば理解に落ち着くものではなさそうだ。
換言し続けても堂々巡りになるか、好きな表現で納得してしまうだけだ。
一言で表現して万人に伝わるものでないことは確かだ。
「愛」と聞いて思い浮かべる感覚が一人ひとり異なるように。
まだスタート地点の手前での準備体操の途中だ。
「愛」と聞いて思い浮かべる感覚が千差万別で、しかしみんな幸福な気持ちになる。
これをして「愛の感覚」の共通性が存在するとしてよいのだろうか?
それを「よい」とする多数派の陰に「否」と呟く人は間違いなくいる。
始まりはやはり「自分一人にとっての正しさの感覚」だと思う。
その感覚が他者と共有できれば喜びを感じるだろう。
他者と共有できることがその感覚の強度を増すことにも繋がるだろう。
とすれば、自分の中で曖昧なその感覚を明示化することに実践的意義がある。
しかし明示化と言っても、意味が通ればそれで済むわけではない。
それが最初に「論理的な整合性ではない」と言った意味だ。
言葉にならない、掴みどころのない、しかし確かな位置を占めるある感覚。
それを言葉をもって再現させるアクロバシィを演じなければならない。
鍵は、保坂和志のいう「解析的に言葉を使う」ことだと思う。
状景を、現象を、正確な言葉をもって記述する。
上っ面をなぞる表現の使用に慣れると自分の言葉から強度が遊離する。
かちりと噛み合う歯車を一つひとつ拵え、絡繰りを組み上げていく。
だがこれは別方面からのアプローチになるので、当初の道筋に戻る。
まず、なぜこの記事を書こうと思ったかを振り返る。
実体を大切にし、「確かな感覚」を内に感じればそれを具体化する経験を積む。
「なんだか充実しているなあ」と曖昧な感覚に浸るのではなく、
その感覚を(身体ではなく)頭に刻むべく記述する。
そうしようと思っていた感覚にさきほど出会ったのだった。
小説の登場人物が二人、由緒正しき古民家の離れで寛いでいる。
初夏の日差しの強い午後、蝉時雨に包まれ、仄かに涼しい風が通り抜ける。
座布団を枕に縁側で昼寝する友人を横目に、
主人公は畳の上で仰向けになってしばし思考に耽る。
この場面に自分は引き込まれた。
主人公になり切った自分は、彼の思考内容をトレースしながら、
恐らくその思考以外の雑念がぴたりと動きを止めたのだった。
その場面のあいだ、主人公を通じて「理想の思考状態」を経験していた?
まず分かるのは、思考内容は付随的なものに過ぎないこと。
いかに心地よく頭の中の展開に意識を委ねられるか。
それは「いかに身体に対して無意識でいられるか」でもある。
この必要条件は、健康な身体ではなく「思考と同調できる身体状態」だ。
そう、恐らく思考に対しては、健康であればあるほど良いわけではない。
「電脳世界という理想」も頭の実感としては間違いではないのだ。
しかし実際のところ身体器官である脳は即物的な面を必ずもつ。
「幸せを過去に流す作法」はここにもあるのではないか?
戻る見込みが薄いが、話を戻す。
理想の思考状態も、その本質は「一瞬の輝き」だ。
「その一瞬のための一生」と言って、大袈裟でないかもしれない。
その夢を実現する原動力は意志と集中力で、それは徹底的に脳的な力だ。
過去に逆戻りしてしまう可能性もあるが、少し現実に冷淡になってみようと思う。
これは思考と実体の齟齬をなくす方向性とは全く別で、
「思考を研ぎ澄ます」ことを最優先に日常のサイクルを回す。
恐らくうまくいかないので、「時に」でいいし「時がくれば」でいい。
本を読んでいる間だけでもいいかもしれない。
むしろ日常生活のバランスをとるならそれが妥当か。
そして一日の中で何度か「フェイズの切り替え」がスッパリできることは、
気持ちの滞留を防ぎ、リズムをつけることに繋がるだろう。
次は上で触れた「別方面からのアプローチ」を展開してみようか。
次の取っ掛かりになるか分からないが、書き終えてから思い付いたことを書く。
「言葉にならない感覚を言葉にするアクロバシィ」を実現させる方法。
前に「比喩がそれだ」と書いたことがあるが、別の言い方もある。
「○○ではない」をどんどん繋げていく方法もあるのでは、と思ったのだ。
比喩とは「言いたいことをそのまま言わないで伝える表現手法」の一つだ。
一つの比喩を挙げて、その解釈は読み手に委ねられる。
もちろん書き手の意図に照らしての誤読も大いに起こりうるが、
解釈が読み手の文脈ベースであるために、誠実な読み手の解釈には強度が備わる。
「○○ではない」も比喩と同じ効果があると考える。
○○が解釈の余地のほとんどないものであるとして、
しかしその否定からの連想には制限がないのだ。
そして散漫になる連想を収束させるのが「○○ではない」の数だ。
ベン図を描いて空間的に捉えれば分かりやすいが、
この方法の理解を空間的把握で留めるには少し惜しい。
つまり、ある枠組みの中での否定はその枠組みを飛び越える可能性を秘めている。
このことは論理的整合性に近視眼的になると見えなくなる。
「否定」というと聞こえが少し悪いが、ここではわりと適切な表現かと思う。
論理性の構築は基本的に「○○は△△である」の命題を精巧に繋ぎ合わせる作業だ。
万人が、異なる背景を持ちながらも、論理的な思考によって同じ認識にたどり着く。
しかし構築の段階であった意志が、万人の利用の段階では失われてしまう。
「否定」には意志が伴う。
ある命題が提示され、読み手がその内容を自分のものとして理解し、
しかしそれを否定だけされて先が示されなければ?
思考を進める限り、何かが生まれるだろう。
恐らくこの話は上の「別方面からのアプローチ」とはまた別の話だ。
だが面白そうなので別の機会に次につなげたい。
最近の自分の重要思考テーマである「意志と集中力」と深く関係している。
よし、「正しい思考」を本ブログ内でシリーズ化しよう☆
今日のBGM:【ボサノバ】Phantom Ensemble【東方自作アレンジ】
この正しさは、もちろん論理的な整合性を指すものではない。
言い換えれば、「あるべき仕方で為されている」だろうか。
では「あるべき」とはどういう状態か?
表現そのものを細かく割っていけば理解に落ち着くものではなさそうだ。
換言し続けても堂々巡りになるか、好きな表現で納得してしまうだけだ。
一言で表現して万人に伝わるものでないことは確かだ。
「愛」と聞いて思い浮かべる感覚が一人ひとり異なるように。
まだスタート地点の手前での準備体操の途中だ。
「愛」と聞いて思い浮かべる感覚が千差万別で、しかしみんな幸福な気持ちになる。
これをして「愛の感覚」の共通性が存在するとしてよいのだろうか?
それを「よい」とする多数派の陰に「否」と呟く人は間違いなくいる。
始まりはやはり「自分一人にとっての正しさの感覚」だと思う。
その感覚が他者と共有できれば喜びを感じるだろう。
他者と共有できることがその感覚の強度を増すことにも繋がるだろう。
とすれば、自分の中で曖昧なその感覚を明示化することに実践的意義がある。
しかし明示化と言っても、意味が通ればそれで済むわけではない。
それが最初に「論理的な整合性ではない」と言った意味だ。
言葉にならない、掴みどころのない、しかし確かな位置を占めるある感覚。
それを言葉をもって再現させるアクロバシィを演じなければならない。
鍵は、保坂和志のいう「解析的に言葉を使う」ことだと思う。
状景を、現象を、正確な言葉をもって記述する。
上っ面をなぞる表現の使用に慣れると自分の言葉から強度が遊離する。
かちりと噛み合う歯車を一つひとつ拵え、絡繰りを組み上げていく。
だがこれは別方面からのアプローチになるので、当初の道筋に戻る。
まず、なぜこの記事を書こうと思ったかを振り返る。
実体を大切にし、「確かな感覚」を内に感じればそれを具体化する経験を積む。
「なんだか充実しているなあ」と曖昧な感覚に浸るのではなく、
その感覚を(身体ではなく)頭に刻むべく記述する。
そうしようと思っていた感覚にさきほど出会ったのだった。
小説の登場人物が二人、由緒正しき古民家の離れで寛いでいる。
初夏の日差しの強い午後、蝉時雨に包まれ、仄かに涼しい風が通り抜ける。
座布団を枕に縁側で昼寝する友人を横目に、
主人公は畳の上で仰向けになってしばし思考に耽る。
この場面に自分は引き込まれた。
主人公になり切った自分は、彼の思考内容をトレースしながら、
恐らくその思考以外の雑念がぴたりと動きを止めたのだった。
その場面のあいだ、主人公を通じて「理想の思考状態」を経験していた?
まず分かるのは、思考内容は付随的なものに過ぎないこと。
いかに心地よく頭の中の展開に意識を委ねられるか。
それは「いかに身体に対して無意識でいられるか」でもある。
この必要条件は、健康な身体ではなく「思考と同調できる身体状態」だ。
そう、恐らく思考に対しては、健康であればあるほど良いわけではない。
「電脳世界という理想」も頭の実感としては間違いではないのだ。
しかし実際のところ身体器官である脳は即物的な面を必ずもつ。
「幸せを過去に流す作法」はここにもあるのではないか?
戻る見込みが薄いが、話を戻す。
理想の思考状態も、その本質は「一瞬の輝き」だ。
「その一瞬のための一生」と言って、大袈裟でないかもしれない。
その夢を実現する原動力は意志と集中力で、それは徹底的に脳的な力だ。
過去に逆戻りしてしまう可能性もあるが、少し現実に冷淡になってみようと思う。
これは思考と実体の齟齬をなくす方向性とは全く別で、
「思考を研ぎ澄ます」ことを最優先に日常のサイクルを回す。
恐らくうまくいかないので、「時に」でいいし「時がくれば」でいい。
本を読んでいる間だけでもいいかもしれない。
むしろ日常生活のバランスをとるならそれが妥当か。
そして一日の中で何度か「フェイズの切り替え」がスッパリできることは、
気持ちの滞留を防ぎ、リズムをつけることに繋がるだろう。
次は上で触れた「別方面からのアプローチ」を展開してみようか。
次の取っ掛かりになるか分からないが、書き終えてから思い付いたことを書く。
「言葉にならない感覚を言葉にするアクロバシィ」を実現させる方法。
前に「比喩がそれだ」と書いたことがあるが、別の言い方もある。
「○○ではない」をどんどん繋げていく方法もあるのでは、と思ったのだ。
比喩とは「言いたいことをそのまま言わないで伝える表現手法」の一つだ。
一つの比喩を挙げて、その解釈は読み手に委ねられる。
もちろん書き手の意図に照らしての誤読も大いに起こりうるが、
解釈が読み手の文脈ベースであるために、誠実な読み手の解釈には強度が備わる。
「○○ではない」も比喩と同じ効果があると考える。
○○が解釈の余地のほとんどないものであるとして、
しかしその否定からの連想には制限がないのだ。
そして散漫になる連想を収束させるのが「○○ではない」の数だ。
ベン図を描いて空間的に捉えれば分かりやすいが、
この方法の理解を空間的把握で留めるには少し惜しい。
つまり、ある枠組みの中での否定はその枠組みを飛び越える可能性を秘めている。
このことは論理的整合性に近視眼的になると見えなくなる。
「否定」というと聞こえが少し悪いが、ここではわりと適切な表現かと思う。
論理性の構築は基本的に「○○は△△である」の命題を精巧に繋ぎ合わせる作業だ。
万人が、異なる背景を持ちながらも、論理的な思考によって同じ認識にたどり着く。
しかし構築の段階であった意志が、万人の利用の段階では失われてしまう。
「否定」には意志が伴う。
ある命題が提示され、読み手がその内容を自分のものとして理解し、
しかしそれを否定だけされて先が示されなければ?
思考を進める限り、何かが生まれるだろう。
恐らくこの話は上の「別方面からのアプローチ」とはまた別の話だ。
だが面白そうなので別の機会に次につなげたい。
最近の自分の重要思考テーマである「意志と集中力」と深く関係している。
よし、「正しい思考」を本ブログ内でシリーズ化しよう☆
今日のBGM:【ボサノバ】Phantom Ensemble【東方自作アレンジ】