幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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僕たちは潜在的に、素直になって渾身の力で挑むことをすごく恐れるんですよ。恐れるだけじゃなくて、もっと言うと、「頑張る」ことを嫌がる。それはなぜかと言うと、まさにブレーキを踏みながらアクセルを入れることを、僕たちは「頑張る」ことだと思い込んでいるからかもしれないんです。(…)
僕は、自分がモヤモヤした気分に覆われていると思った時、「とりあえず目の前のことにちゃんと取り組もう」と思い直します。そうやって、自分がブレーキを踏んでいることに気づいただけでその瞬間に、かなりブレーキが緩まります。(…)
「自分の心はどういう状態にあるのか」ということを、「今、ここ」の現場で気づくという経験が一番大事なんですよ。まずは意識化、自覚の大切さを頭で理解してもらって、あとは現場でひとつひとつ実践してもらう。
こうやって、ちょこちょここまめに経験値を上げていけばいくほど、自分の心のメンテナンスを自分でやれるようになってくると思います。
名越康文『心がフッと軽くなる「瞬間の心理学」』p.67-70
「ブレーキを踏みながらアクセルを入れる」という比喩が絶妙で、
体に負担が強くかかっているにもかかわらず前に進まない(出力がごく小さい)。
これは真逆の二方向の入力エネルギが相殺している状態なわけだが、
「なんだか頑張っている自分」に陶酔しているとエネルギの浪費が見えてこない。
時に、得るもののないムダな努力に励んでしまうのは、
その自分への陶酔に「現状維持志向」が加担しているからかもしれない。
今の状態が幸せだし、頑張っている自分もステキ。
「自分も救われない人間だな」という客観視がここから脱する第一歩だろうか。
…という解決法は少し活力不足に思われるので、ここは名越先生の言う通り、
努力と不釣り合いな出力に違和感を持って「今、ここ」に集中し直すのがよい。
変に頭を働かせて脳内で完結させないことが大事で、
現場にいる限りは思考を常に外部に開放しておく意識が必要だろう。
自分が心掛けたいのは、この「思考の外部への開放」を常に意識すること。
読書を通じて思考の経験を積む、あるいは思考方法を学んでいるわけだが、
学ぶ理由は「低コスト(入力エネルギ)で思考できるようになる」ことではない。
あくまで「その都度、現場に見合った思考を展開できるようになるため」である。
繰り返すが、楽をするために思考を洗練させるわけではない。
時にそのような認識を良しとしてしまうのは、気を抜けば自分は怠惰だからだろう。
思考に疲れた時は、楽な思考をするのでなく思考そのものを止めればよい。
一度「考えよう」と決めたならば、思考そのものに集中する意志を持つ。
2つめの下線の解釈は、「入力エネルギが相殺している」状態に気づくために
思考があり、「では自分の心をどうするか」の実践を担うのは思考ではない。
言い方が難しいところだが、気づくための枠組みをこしらえておけば万事OK、
と考えてしまうと、思考から意志が抜け落ち「今、ここ」に集中できなくなる、と。
「思考そのものは方法であって意志ではない」と、とりあえず表現しておこう。
この意志に「無根拠な」と付け加えると通じやすくなるかもしれない。
思考は合理性を導き出すわけだが、合理性がそのまま意志に化けることはない。
合理性は意志の活動を助ける触媒といったところか。
つまり思考せずに(合理性を無視して)意志するエネルギはもちろん必要だが、
思考を通じて(合理性を選択する)意志を持つエネルギも必要だということ。
加えて思考を止める(合理性の追求に見切りをつける)意志を持つエネルギも要る。
こう続けて書くとエネルギ消費が激しいようだが、要は「考え過ぎるな」と。
もちろん本ブログの説明分にある「考え過ぎ」とは水準が違うわけだが。
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幸福の純粋性を本当に味わうためには、「今、ここ」で起きた幸福感を、そのまま時と共に流していかなきゃいけないんでしょうね。そういう意味では「幸福は絶対に過ぎ去るもの」なんですよ。
それを覚悟しておかないと、一度つかんだ幸福に固執するあまり、「あぁ、あの時は楽しかったのに……」というマイナスの感情に変化してしまうわけです。そして、自分の規定した楽しさの形に囚われて、そこから少しでも外れると嫌な気分になってくるんです。(…)
頭の暴走というのは、意志の力が弱くなった状態であればあるほど起こりやすくなる気がします。でも、その暴走はやはり、自分の意志で止めるしかないんですよ。(…)その困難を可能にするのは、おそらく集中力というものなんですね。「今、ここ」の状態を冷静に見つめられる集中力が身につけば、自分の頭、そして自分の心をかなりのところセルフコントロールすることができるはずなんです。
名越康文『心がフッと軽くなる「瞬間の心理学」』p.61-62
自分に引き寄せて考えるにつけ、ここからは2つの教訓が得られる。
ひとつは「現状維持志向はかんたんに過去に引きずられてしまう」こと、
もうひとつは「身体性への意識が"頭の意志"を弱めることがある」こと。
言葉だけで捉えた気になりその内実から目を背けると必然的に偏向するという二例。
「現状維持」ならニュアンスは伝わるが「今を楽しむ」になると分からなくなる。
ともすると抜粋にもある「今、ここ」と完全一致すると考えてしまう。
要は「今を楽しむ」がある時点で冷静でなくなると暴走すると言いたいのだが、
そのプロセスを素描してみようと思う。
今自分は楽しいと思っており、今感じている快楽をずっと味わっていたいと思う。
こうなると「今を楽しむ」が「楽しい状態(現状)の維持」に早変わりする。
この現状維持が意識の大半を占めると楽しさが減衰するのは容易に想像できる。
曲者は、この段落の一文目だけを眺めると特に違和感がないところに潜んでいる。
名越先生の言葉によれば、「幸福感を時と共に流す」作法を身につけていれば
現状維持に囚われずに「今、ここ」にある幸福感を味わえるということになる。
この作法の身に付け方は経験していくしかないのだろうが、
作法の内訳は想像するに「気付き」と「対処」の2つに分けられる。
このうちの「対処」は既に名越先生が言われているように「集中力」がキィだ。
「楽しんでいるはずが何か現状維持に傾いているな…」と自分の状態に気付けば、
「純粋に楽しんでいたついさっき」という過去に引きずられそうな意識を
集中力をもってして「今、ここ」に引っぱり上げる。
一方の「気付き」だが、このためには常に冷静な自分がどこかにいればよい。
「どこかに」というのは、分裂症みたいだが「自分の一部」という意味だ。
人はふつう多面的であって、それを一貫性が無いと否定する向きもあるが、
もともとがそうであるならば多面性を好意的に捉え、利用しない手はない。
「多面的である」例は、出力としては時と場合に応じて振る舞いが変わること。
家と会社と休日の街中で違うだろうし、話し相手が誰かでも違ってくる。
そして実際には「同じ時と場合」であっても自分の(精神・健康)状態が違えば
また振る舞いは変わるだろうし、その順列組み合わせの定量は困難を極める。
何が言いたいかといえば、「ふと表れる別の自分」を大切にしてみては、と思う。
友人と楽しく笑っていて、ふとそんな自分を外から眺める視線を感じる。
その「別の自分の視線」を楽しみの邪魔だと斥けるのではなく、
(それに過剰な意味を求めるのもまた良くないが)まずは「へぇ」と思ってみる。
話を戻すと…自分には「もったいない精神」が強く備わっていると自覚している。
この自分の性向を「ついで症」(「何かのついでに」を非常に好む)とも呼んでいて、
つまりムダにしない対象が物に限らず、時間や意志や発想などとかなり幅広い。
これをポジティブにばかり捉えていたが、病的であるという認識も必要と気付いた。
「何か楽しいと感じていて『これがすぐ消えてしまうのがもったいない』と思う」
油断すれば自然とこのような発想をする自分が今ここにいて、
これは上記の話の流れからすると「今を楽しむ」が一瞬にして「現状維持」に
切り替わるという自虐的でたいへん不幸な悪習と言えることになる。
自分で書きながら思うに、こう書いてしまうと恐ろしい…直そうと思います。
一つ目が長くなったが、もうひとつにも軽く触れておきたい。
それは「身体性への意識が"頭の意志"を弱める」可能性について。
何やら考え過ぎて気分が塞ぎ込んでいる時に、
「身体がなおざりにされているからだろうか」と思うことがよくある。
「身体と脳のバランス」とは言葉ではいつも意識していて、
それが脳に偏っている時に身体が不調を来し、
器官として身体である脳に悪影響を及ぼしているという予想がそう思わせるのだが、
そうであるばかりではないということに今回の抜粋部分を読んで気付いた。
「脳の暴走を止めるのは自分の意志である」という指摘がほんとうで、
その意志が(身体の関与が全くないとは言わないまでも)脳に担われるのであれば、
「脳の暴走は自分の意識が脳に偏り過ぎているからだ」という認識は、
暴走を止める意志の放棄につながりかねないのだ。
血管が額に浮き出るまで根を詰めて考えろと言いたいわけではない。
思考がうまく回らなかったりどこかで行き詰まった時に、
安易に身体性にすがりついて思考を放棄するなと(もちろん自分に)言っている。
だいたい「身体性を取り戻す」と言って、言葉以上のことが全然分かっていない。
いろいろ考えるのは好きだが無理をしない生活を常としていて、
無理をしないこと自体は身体に良いはずだが中途半端は結果的に毒である。
本が相手でも「完全燃焼」は可能だと思う(おそらくまだ経験はない)。
活力が減退し倦んでいた時期は「思考の不完全燃焼」が元凶であった可能性もある。
一人でいる時はひとまず身体性はおいといて、じっくり考えてみることを勧める。
「人とつながる」ことが大切だと説いた時に、今のわれわれの感覚だと、それがある種強迫的になってしまうことが多い。(…)もともとは心を潤すための行動だったはずなのに、そこにまた強迫的な観念が生まれて、不安に駆られる。何がつながりなのか、何が人と人の絆なのか分からなくなってくる。(…)だから「人とつながる」ということは、決して直接的なコミュニケーションだけではないってことを認識しなくちゃいけない。例えば、何年も会っていなくても、その人のことを想うだけで日頃の様々な瑣末さからくる心のトゲが溶けていく。そういう関係性の経験こそが「人とつながる」ことだと思うんです。
名越康文『心がフッと軽くなる「瞬間の心理学」』p.41-42
直接的なコミュニケーションは確かに大切だ。
しかし「それこそ至上」としてしまうと、常にそれをせずにはいられなくなる。
そう思う人が何人もいて、お互いで満足し合えているのなら口を挟む余地はない。
板挟みに遭うのは、彼等の中で「それは違うのではないか」と密かに思う人だ。
「その人のことを想うだけで…」と彼等に言おうものなら、
「それは君の自己満足に過ぎない」と糾弾されるのがオチだ。
その指摘は間違っておらず、しかもこのようなやりとりそのものを
直接的なコミュニケーションが快く成立しているとは言い難い。
直接的なコミュニケーションの大切さは分かっているだけに、これは辛い経験だ。
この人は自分の価値観を押し隠して彼等に波長を合わせるしかないのだろうか?
仕事の延長の付き合いならば仕方の無いことに思えるが、
私的な付き合いであれば、敢えてしなくともよいのではないか。
この判断は直接的なコミュニケーションの否定ではない。
直接的なコミュニケーションはお互いが快くできる相手とすればよい、
という当たり前の認識に則ってのことだ。
名越先生の言葉はこの判断を採用する勇気をくれる。
…この場面で勇気が必要であることがまた強迫的ではないかとも思えるのだが。