幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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子の領分とは、子ども部屋のような、母の作った巣を意味しない。それは、彼がいたずらな小人たちと会うことのできる場所のことだ。母に包まれることなく、自分ひとりの孤独を守れる場所のことだ。
いったいに、子どもの成長にとって、孤独に慣れることは重要なはずだ。どこにも位置づけられない、なにもにも包みこまれない、自分ひとりに慣れることは、成長の過程になくてはなるまい。
これに慣れておかないと、最高の孤独である自殺へと短絡する誘惑に弱くなる。自殺した子どもは、たいてい孤独になれる場所を自殺への過程で求めている。この現象を、彼のそれまでの生活における孤独の欠如から来ている、とぼくは考えている。彼は、それまでの孤独の不足を、自殺によって一挙にとりもどそうとする。それは、家庭の不在などが原因ではないし、またもちろんのことに、自殺した子の家庭に「甘え」があって「きびしさ」がなかった、といったものではない。
森毅『ひとりで渡ればあぶなくない』p.57-58(「父と母と、そして子と」)
孤独と自殺は正の相関関係にある、と常識は言うと思う。
けれどここではその逆を言っている。
「孤独になれる場所を求めて自殺する」という部分にドキッとした。
自分にその傾向があるから、ではない。
きっとこれはその通りで、しかし孤独を求めて死に引き寄せられる子どもに、果してその自覚が持てるのだろうか。
そう考えた時、いや、持てるはずなんかないと思ったからだ。
自分で死を選ぶなら納得して死にたい、という話ではない。
自分が死を選ぶ意図が分からないまま実行に移してしまうのは、本人は主体的に動いているつもりでも実は「まわり」がそうさせている。
抜粋の話ならそれは両親(家庭)かもしれないしクラスメイト(学校)かもしれない。
そして「まわり」である、彼の生活環境を取り巻く人々が悪いのかといえば、その中の特定の誰かが決定的な影響を与えたのかもしれないが、その特定の誰かも彼と同じ状況(自覚がない。さらには悪意もなく、自分の振る舞いが自然だとすら思う)にある。
つまり「そういう流れがあった」としか表現できないような、非常に気持ち悪いものを感じて胸が疼いたのだった。
無責任な表現に見えるかもしれないけれど、それは「責任者はどいつだ」という目で見るとそう見えるからで、そしてそういう見方がまさに自覚なくこの「流れ」を形成している。
ちょっと別の部分を掘り下げてしまったので戻す。
自分は教育に興味があり、教育関係の新書や教育論のオムニバス本などを時々読む。
その自分の教育に対する興味の出所について、「誰しも子ども時代を経験しているからテーマに普遍性がある」「いずれは自分に子どもができることを想定している」といったことを書いてきた。
そのどちらもある程度当てはまってはいるだろう。
けれど僕の読み方はあらためて意識するに「誰かの教育のため」でなく「自分の教育のため」であって、するとほんとうのところは別の部分にあるのではと思った。
つまり自分こそが「子ども」なのだ。
もう少し正確に書こう。
ある意味で子ども時代をすっ飛ばして大人になってしまった自分にとって、もう一度子ども時代をやり直すことが必要なのだ。
一般的な話にしてみよう。
現代は「一億総幼児化」と概して言えそうな論をよく目にする。
モンスターペアレンツ、マナーの悪い老人、ブラック企業(これは違うかも)など。
大人としての倫理、節度が備わっていない大人をして幼児化と呼んでいるのだけど、これは「見た目は大人、中身は子ども」という名探偵コナンの逆の…ではなくて。
えーと忘れた、なんだっけ。
そうそう、幼児は子どもとは違って、というか子ども以前で、周りを気にせず我が儘に振る舞うのが本領で、それが終わって教育を受けられる状態になって初めて子どもになる。
だから、幼児化している大人に教育が必要なのは確かだけれど、まだその必要の前提を満たす状態に達していなくて、その前段階で幼児から子どもになるために必要なのは教育ではない。
…上の話とつなげるなら必要なのは「両親のほどほどに放任な保護を通じて孤独を獲得すること」(飛躍してるなあ)なのだけど、最初に言いたかったのはこれではなく。
「大人」も「子ども」も役割であり性質でもあって、社会に出れば大人の役割をこなさねばならないけれど、どれだけ歳をとっても子どもの性質が人の中から失われてはいけない。
そして「教育を受ける身ぶり」によって大人は子どもの性質を取り戻すことができる。
のかもしれない。
ということが言いたかったのかもしれない。
抜粋と全然話は変わったけれどそれはよくて、「孤独は大切なんだよ」と教えてくれる、なんだか活力をくれる文章だったのだ。
家庭や学校を否定しているように聞こえるかもしれないが、それは「よい家庭」や「よい学校」なるものが語られ過ぎたためである。
ある価値観を持ち上げるために、比較対象をけなすことがある。
個人の中で心のバランスを保つためになされる場合は、どうこう言う筋合いはない。
ただ、それを集団で、しかも当たり前のようにしてしまうと、よくない。
それがよくないと先に気付けるのは孤独の側で、そしてそれを集団に伝えてあげるという使命も孤独の側に生まれる。
別のなにかを貶めることなく、なにかの良さを人に伝えられればと思う。
むしろ、「父のきびしさ」と「母のやさしさ」なんて、なんの根拠もあるまい。父なるものは不在であっても自分の領分のなかでみずから成長することができればよいし、母なるものの幻想がおおっていようと、待避する領分がありさえすれば安全だ。
それは、自分に固有の領分で、自分に固有の小人たちと面会できる場所である。父にとって悪い子になることができ、母の世界からはみだすことのできる場所だ。これは、実在の世界である必要すらない。彼の心の中に、そうした世界があるだけでよい。
同上 p.58
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「他人に迷惑をかけない人間」というのを、やたらと持ちあげることに、ぼくはおおいに不満なのである。(…)むしろ、迷惑をかけあうことこそ、人間の社会性と言えるくらいだ。それに、社会的弱者にとって、この「迷惑をかけるな」は差別として作用することが多い。問題は、迷惑をかけていることに鈍感になるな、ということだろう。これも自覚の話。
森毅『ひとりで渡ればあぶなくない』p.30
自覚の話は「言うは易し、行うは難し」であることが多くて、例えばこの場合だと、自分が他人に迷惑をかけている自覚を実際に迷惑をかけることの抑制作用と切り離すことが難しい。
自覚さえあれば傍若無人でも大丈夫なわけはないし(自覚が言葉だけになるとこうなるのだが)、過剰な自覚を背負い込んで縮こまっていてもいけない(僕は主にこちらに属する)。
だから「行動を伴う自覚」とするにはこの論理一つでは足りない。
もちろん森先生のことだから続きにちゃんと書いてある。
うろうろして首をつっこむときは、迷惑をかけないようにするわけにはいかない。(…)それで、やじ馬のマナーくらいはあろう。たぶんそれはオジャマムシの妙なやつと自己規定する道化気分でもあろうか。人にとって、ややこしさは必要なのである。
道化の気分というのは、人間としてかなり高級なことに属するから、うろうろと人に交わるというのは相当にややこしいことだ。しかし、人間はややこしさを避けていると、どんどん縮こまっていく。してみると、小さな仲間にオジャマして迷惑をかけるというのは、ややこしさを注入してあげることでもある。
(…)
だから、目的といったものがあるとすれば、なにかを探し求めるのではなくて、とかく閉じこもりがちな自分の心を、ややこしく解きほぐすことにありそうだ。この点で、目標を求めることへの無精さと、ややこしさを求めるやじ馬性とは両立し得る。
同上 p.30-31
そんなもの必要ないと思っている人にこそ必要なのだ。
それだから、相手に流されるだけでは決して、ややこしさを必要としている人にややこしさを注入してあげることができない。
しかし、話はわかるが、果して話だけでこうも動けるものか。
きっと、それは難しい。
だから感じなければならない。
「他人がややこしさを必要としていること」を、その人に自覚なんてなくても、その人が暗に発しているものから。
そしてそれを感じる力や方法といったものは、おいそれと会得できるものではない。
その力を持っている人が近くにいれば、きっとその人とある程度一緒に過ごす時間があるだけでわかってくるものだ。
けれど近くにそんな人がいない場合はどうするか。
自分でその力や方法を開発するしかない。
なんだか話がずれている。
その方法の開発に興味はあるがそれはまた別の話。
この抜粋の中で「おっ」と思ったのが下線部で、簡単に言うと「ばらばらに思えた性質が一つの筋道で繋がると強くなる」と思ったのだった。
強くなるというか、意味があると思えるというか、「自分のこの性格、面倒臭い短所としか思ってなかったけど、自分のやりたいことに活かせるやん」と思えるというか。
一人の人にはいろんな性質があって、人の性格を一言で言い表せるなんてことはないけれど、それは決して一つひとつの性質が何の関係もなく散漫に存在しているわけではなくて、何せそれらのいろんな性質は全て一つの身体に宿っているのだ。
だから、お互い関係ないように思える自分の性質たちも、視点によっては一つの文脈を介して繋げることができるし、そうやって繋げることができると、個々に独立して発揮されていた以上の効果を(その効果を発揮する場面も分かってくるし)発揮することができるようになる。
この「視点を持つ」「文脈を発見する」ことは言葉によってしか行えない。
上で一度ずれた話とつなげるなら、自分でその力や方法を開発するにおいて、言葉は非常に重要な役目を果たすことになる。
この場面で「誰もそんなこと言ってないから…」と自信をなくすことは論理的に間違っている。
「自分の文脈」を発見できるのは自分しかいないからだ。
他人の共感が登場するのは、自分で見つけた「自分の文脈」を他人に向けて発揮した時になって初めてのことだ。
論理の力は、このような所で日の目を見る。
そのはじまりは実質を伴わなくとも、論理を実際に適応して効果が実感できれば、論理への信頼に実質が伴うことになる。
これは論理が使われるのではなく、新たな論理が作られる場面の話である。