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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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 ぼくは原則、市場原理主義でいいと思っているのですが、同時にそれをアイロニーとして感じる感性がないとダメだと思っているのです。いつも言っていることですが、自己否定の胚珠を持つということです。これがないと、ただのバカになってしまうんですよ。
平川克美『ビジネスに「戦略」なんていらない』p.236

言われてなるほどなと思い、自分発ではこういう考え方ができなかったと気付いた。
ここでの市場原理主義は「ビジネスの場を律する主義」として言われていて、個人の価値観はまた別なのだ。
ビジネスがそういう原理で動いていて、「そういうもんだ」と思い、その場のタネも仕掛けも知りつつ演じられる、ことを「アイロニーとして感じる感性」と呼んでいるのだと思う。
僕はこれまで何度も消費至上主義とか市場原理主義とかを「やだなー」と、少し丁寧に言ってそういう価値観には染まれないと書いてきたのだけど、それは実際のところ言うまでもないことで、社会がそう動いているだけで個人の価値観をそれと同じくして生活している人間を僕自身はそういえば目にしたことはなくて、つまり流されやすい自分に対する注意喚起としてボヤいていただけだということだ。

と書いて、いやそれだけじゃない、「アイロニーとして感じる感性」と維持するためでもあったはずだと思い直す。
アイロニーとは状況を冷静に眺めたり客観的な視点を獲得するために有用な要素ではあるけれど、活用されてこその効果であって、それ自体は有用ではなく逆に状況と同次元での思考に対しては負担となる(アイロニーとは「一つ次元を繰り上げる思考」だから)。
だからアイロニーの本来もつ性質は、慣性に馴染まない。
「自己否定」もそうで、自分を否定ばっかしてると誰でも落ち込んでしまう。
しかしではやらなけりゃいいのかといえばそんなわけはなく、要は方法があるのだ。

読書あるいは単独思考というのは、その点で相性が良い。
なにも「独りで考える」ことは孤独の営みではない。
「他者と共にある」という時の他者の形態の多様性について、そしてその影響力について、もっと信頼してもよいと思う。
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 お客と「わたし」の関係は、この[お互いを信じるという]「建前」という概念上のインターフェースを境界として向き合っている。境界の向こう側によく見えない「本音」がある。こちら側にも相手に見せてはいない「本音」がある。この関係をもう半歩ひねってみれば、商品やトークを媒介にしてお互いの本音が沈黙のコミュニケーションをしている光景が見えるはずである
 売る人と買う人という擬似的な人間関係を、それがあくまでも擬似的な関係であると知りつつそれを演じる。この演じ方の中にお互いの「生身」を仮託し、信頼とか誠実と言った「本音」を見せ合う。

平川克美『ビジネスに「戦略」なんていらない』p.158-159(第六章 一回半ひねりのコミュニケーション)
「なぜ人は"なぜ人は仕事をするのか”と問うのか」というメタな問いがこの章の山場で、こういう「意味の手前」を探る話はいつもながら興味深いのだけど、僕がこの章を読んでタイムリーだと思ったのは、ビジネス(仕事)の場面に否応なく表出せざるをえない「個人としての自分」の扱いについての話だ。
それは仕事の効率的な遂行においては邪魔になることの方が多く、理想的にはない方がよいとされるのだが、その理想は会社の理想であって個人の理想とは折り合わない。
…というのは本当だろうか?
「効率」という概念が、そもそもは「人が仕事をする理由」とは関係がなくて、「効率的な業務の運用によって会社を存続させる」のは会社を生かす(延命させる)ためであって、「会社で働く理由」ではない。
そのことを見失いがちだと本章には書いていて、そして僕はそう読んだということなのだが、「そのことを見失わないためにどう考えるか」も書いてくれている。
 もしビジネスに面白さを見出すとすれば、それは自己の現実と自己の欲望との関係の中にあるのではなく、そういった欲望の劇や商品に値づけをして販売するという社会的な行動プロセスの背後に非言語的なコミュニケーションが行われているというところから来るのだろうと思います。つまり、ビジネスが提供する人と人との関係性の面白さに起因しているということなのです。(…)
 ここで重要なのは、ビジネスの舞台では、それぞれがそれぞれのキャラを身にまといながらも、そのキャラを操っている交換不可能な「わたし」という個性が同時に存在しているということなのです。(…)個人はここでは業務遂行的な課題と自己確認的な課題に引き裂かれたような関係にあります。この引き裂かれたような関係こそが仕事の面白さの源泉であり、エネルギーを生み出す源泉であると言えるのです。(…)自分の演じているキャラと自分の個性(=自分が自分であるところのもの)との落差の不断の交換プロセスが、ひとりの個人の中で生起しており、同時に他者とのあいだにおいても行われている。ビジネスのコミュニケーションは、遂行的な課題についての遂行的なコミュニケーションですが、同時にそれぞれの「社会的な自分」と「個としての自分」がつくる落差と落差のコミュニケーションでもあるわけです

同上 p.163-166
そう、「当たり前」でいいのだった。
仕事に自分の内側(「個としての自分」)が出てしまうのも(出てしまう、という意味で)当たり前で、それを何とかしようとするのは「社会的な自分」であって、その努力の上でどうしようもない部分が残るのも当たり前。
そのことを嘆いてもいいのだけど、嘆く主体は「社会的な自分」であって「個としての自分」ではない。
両者が仕事をする中で混ざり合ってしまうのは仕方なくて、しかしそのことは障害ではなく前提なのだった。

「自分はなぜ仕事をするのか」を常に問い続けること、と本書には書いてある。
それは答えを出すための問いではなく「コミュニケーションのための問い」なのだ。
一つ前でハシモト本を抜粋しながら連想された話。
(…)親の求めている部分に合致するところは受け入れるけれど、それ以外は無私されるという育てられ方をすると、母親がやってみせたコミュニケーション遮断がボディブローみたいにじわじわと効いてきて、子どものある種のコミュニケーション能力を深く損なってしまうように思うんです。
 そういう経験をしてきたらしい学生たちと話をしていると、話の途中で、何かがすっぽりと抜け落ちていることに気がつくということがあるんです。ぼくがしゃべっていることのうちで、どうやら「聞いている部分」と「聞かない部分」がある。(…)
 そういう学生に文章を書かせてみると似たようなことが起こります。意味が通らないことを平然と書いてしまうんです。(…)
 たぶん、世界が彼女たちには「そう」見えているから。彼女らにとっては、世界そのものがあちこち虫が食った意味の定かならぬものなんです。だから、変な話ですけれど、自分で書いたものが虫食いだらけの意味不明なものでも、世界の「地」とはちゃんと折り合っている。自分が自分の発信しているメッセージを理解できなくても、それは世界の「理解できなさ」ときちんと調和している。だから、別に気持ちが悪くならない。

内田樹・春日武彦『健全な肉体に狂気は宿る』p.21-22
たぶん論理性というテーマで想起されたのだと思う。
理解不能な相手の「主観的な合理性」をすっと提示してみせるウチダ氏の論理は何度読んでも驚いてしまうのだけど、その飽きない所以は「話としてはよく分かるけれどいくら頑張って想像しても実感できない」ことにあるのかもしれない。
合理的な話に必ずしも実感が伴うとは限らなくて、それは理解が実感とか体感そのものではなくそれらへの架け橋でしかないからだ。
だから単に理解するだけでは「橋は架けたけど渡らずにいる」状態に留まっていて、ちゃんと渡れるかどうか分からないし、渡っている途中で崩落する脆さが隠れているかもしれない。
行動に結びつくような理解というのは同じ比喩を続ければ「見ていると渡りたくなる橋」で、橋を架ける前は靄で視界が遮られ対岸が見えなかったが橋をしばらく渡る間に今まで見たことのない景色が眼前に広がってくる、といった経験をさせてくれるような橋のことである。

ということで「渡りたい橋」はたくさんある。
それらの一つを選んで対岸に上陸するのは恐らく、「渡りたいという欲望が機能している状態に満足している状態」に満足できなくなった時だろう。
欲望を制するのは別の欲望…最近何かで読んだな。
あ、これだ。
 フィジカルな欲望は、いわば人間一個の身体内部での出来事です。身体性というものが、欲望の培地であり同時に欲望を囲い込む垣根でもあるわけです。対するに、観念の領域は無際限であり、ここに生起する欲望は身体の内部から這い出して、観念の中で自己運動を始めます。ここに欲望は制動器を失い、欲望が欲望を再生産しながら拡大してゆきます。身体のような物理的な緩衝装置がないだけに、これをコントロールするためには欲望を無にしてゆく何かが必要になるわけです。
 わたしは、ひとつの欲望を無化してゆくものは、もうひとつの欲望であると言いたいと思います。金銭欲や出世欲、権勢欲をコントロールするのは、そういった欲望とは次数の異なるもうひとつの欲望です。それは、簡単には手に入らないものを欲することであり、金銭や地位によっては制御しようのないものを手に入れたいということになるはずです。

平川克美『ビジネスに「戦略」なんていらない』p.124-125
「満足できなくなった時」とは、複数の欲望の均衡が破られる時。
お互いを制し合ってきた欲望のうちの一つが突出し、自分をある一つの方向に駆り立てる時。
僕が思うに、それは通常思われるとは逆の「不安定な状態から安定な状態への移行」ではないかと思われる。
それを望むか望まないか、という話でもない。
自分と欲望はイコールではないのだから。
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