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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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なんだか「前提」の話ばかりしているような気がする。
準備運動だけ念入りでスタートに立たない、というような。
あるいは準備運動ではなく「基礎体力作り」なのかもしれない。
これだと日々の走り込みのように、それをすることで安定した生活を送ることができる。
何かをするための思考ではなく、ある状態でい続けるための思考。
何かと手段や目的にしたがったりするけど、日課は手段でも目的でもない。
そのように生活している、の「そのように」に含まれる。
過去の勘違いや思いもよらぬ繋がりを発見したりして、そうして思考が躍動的になるのだけど、「これは使える」みたいなさもしい(?)発想が浮かぶと日課であるはずのものが日課を超えてしまう(ある晩に作った味噌汁がことのほか美味しくてつい「これは売れる」と思ってしまうような。まあそれはないけど)。
「思考の宛て先」が(滅多に考えないけどよく考えてみれば)いつもブレてることが悪いのかもしれない。
じゃあ宛て先を決めればよいのか、と言えば、それはそれで副作用がある気もする。
宛て先を固定するのではなく、毎回何か書くごとに「どのような人に向けて書いているか」を意識しておくくらいが丁度良いと思われる。

一つ前の「自然」の話と繋がる話。
(今日読んでいて繋がるかなと思い付いた箇所というだけなのだが)
惰性化によって現れる<自然>の話。
ちょっと難しい。
というか短い抜粋ではよく分からないので雰囲気だけ。
われわれは、自分たちにとって何が現実であるかを「定義」しながら生きているのであって、われわれの共存の空間は、共同的な承認と否認という規範的な軸線によって切り取られている。言いかえれば、共存はいつもある特定の<自己意識>を通して制度化されるのだ。 
 ところが、こうした<自己意識>はたえず惰性化してしまう。(…)言いかえれば、習性化した対世界関係の間主観的な等質性(homogeneity)ないしは同型性(isomorphism)が、制度化された<世界>に、”客観的な同一世界”がそれ自体として存立しているかのような仮象を生じさせる。<わたし>たちをそのうちに取り込んでいる<世界>が、その構成の<歴史>を忘却されて、ひとつの<自然>として立ち現れてくるのだ。(…) しかし、われわれが自明のものとしている<世界>が、実はさまざまの可能的な<かたち>のうちのひとつにすぎないことを忘れてはならない(…)。「あらゆる規定は否定である」というスピノザの言葉を想いだしてもいいが、まったく問題にもならないような自明の「事実」が実は「さまざまな可能的秩序のうちのひとつ」にすぎないことに気づくこと、<世界>の実定性[ポジティビテート]のうちに否定性[ネガティビテート]の働きを読み取ることが重要なのだ。

鷲田清一『現象学の視線』(講談社学術文庫)p.165-166
いや言いたいこた分かるけどほな何したらええねん…てなもんであるが、
この文章はワシダ氏(実は氏は僕の在学時に学長をしていて、卒業式で式辞を聞いたので僅かながら身内感覚がある)が85年に書いた文章で(その当時僕は−1歳ですね)、それはきっと氏が基礎体力作りに励んでいた頃の論文で、長きにわたり氏が推し進めている「臨床哲学」がその実践にあたるのだと思う。
だから最近の一般向けの氏の本から入ってここに立ち戻ってくるならば、この難解な文章も「ああ、あれか…」と、思えるはず。
と信じて僕は「知ったか」で読んでます。

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