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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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視界の開けたところに住みたい。

アパートであれ戸建て(古民家とかいいなあ)であれ、窓から外を眺めれば周囲の風景が見渡せる。
まばらに立つ木々と膝丈ほどに伸びた草に沿って小川が流れていたり、丘の斜面に並んだ街並の先に海が見えたりすると素敵。
ただ見渡せるものが何であれ、空は何に遮られることもなくすっきり見えるといい。
(視界に電柱が入らないというのも魅力的かもしれない。実は想像できないから曖昧に言うのだけれど)
空が見えれば雲が見え、夕焼けが見える。
天候の変化もわかるし、空気の澄み具合もわかる。
この点は今住んでいるところでも満たされていて、堪能してはいるが、もう日常の一部だから改めて意味付けしようとしなければ特に言うことはない。
でも少しだけ言えば、ただでさえ読書ばっかしてて(頭の中は広々としているのだが、それとは別に)視界の狭い生活をしているので、なにかしら健全であろうと思えば必要な要素なのだと思える。
そう、最近また実感したことがあって、同じようなことをいつも考えてるはずなのに体調によってその思考内容(というかその内容に対する価値付け)ががらりと変わってしまうもので、これと同じ意味で、閉鎖的な立地の部屋に住むよりは開放的な場所を選んだ方が思考も(複雑であっても)澄んでくるはずなのだ。

と考えると、坂の多いところがいいのかもしれない。
そして傾斜が安定してなくて(=起伏にも波があって)、道路もまっすぐでなく家々も雑多に建てるしかなくて(そうなると稠密でいて圧迫感がないこともありうる)、道を歩いていると複雑だなあと思える街並が家の窓から一望俯瞰できたりするととても楽しそう。
ただこれに関しては今の自分の流行りからして、一望俯瞰によって細微にわたる把握をしたいというわけではない。
その流行りというのは、僕は散歩の時にメガネをかけてなくて、それゆえ近所の山に登った時に開けた視界を楽しみはするのだけど細かいところは全然見えていない。
街並の雰囲気がだいたい掴めればいいと思っていて、ぼけーっとした眺望は脳内補完によって理想的な絵に変換される(と、意識してやってるわけではないが多分そういうことなのだろうと思う)。
おそらく細かい絵を実際の視界で確定させない志向はある種の小説読みに特有のもので、曖昧だからこそ思い描いたイメージ(これはもちろん「画像」ではなく「印象」の方)がそのまま保たれる。
その分かりやすい例としては…小説の主人公の顔がうまく想像できなくて、誰か描いてないかなとgoogleでイメージ検索して、イメージと違う顔に遭遇してしまって幻滅する(あるいは頭にこびりつく)経験は現代の小説読みならたいてい一度は経験しているはずだ。
まあ今の文脈では「曖昧をそのままに」ではなく「曖昧を自分のいいように作り替える」なのだけど。
この風景に対するスタンスは街中を歩いていても同じで、すれ違う人も視野の隅でおぼろげに把握するに留めればみんなステキな人に見えるという…とまで言うとアブナイ香りがしてくるので言わない。

窓からの眺望の話をしていた。
養老先生の本を読み過ぎたせいか「都会的なもの」に対して距離を置きたい今日この頃であるので、きっちり区画されて整った街に住みたいとは思えない。
それは京都市街地のような典型的な「碁盤状の街並」に限らず、ベッドタウンとか新興住宅街とか呼ばれる、短期集中で開発が進められた街も含んでいる。
ただ「ではどこがいいのか」と言われてすぐに答えられないのだが、それは今まで色んな街を見てきたけれど「そういう目」で街並を記憶に留めたことがないからだ。
だから機会があれば「そういう目」で街並探訪をしてみたい。
熊野とか。たとえば。
…相変わらず具体性に乏しいのだが。
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自分が「そこに居たい場所」を具体的に想像すれば叶う、という話でした。
それは「思ったその通りになる」のではなくて「発展形アリの数打ちゃ当たる」といったもので、願いが叶った時に何がいちばん嬉しいかといえば「ああ、うれしいな」と思えることでそれは叶い方にこだわると見失われるものだ。
という説明は前回したような気もするので、早速列挙をはじめてみよう。

・海か川がそばにある
流れているものが近くにあってほしい。今の寮でも部屋から空をぼーっと眺めることはあってそれは空の色のグラデーション(ディスプレイの品質に関わる仕事をしているので目は肥えている気がする)とか雲の動き(自分から見える雲の流れる速さが風速だけでなく雲のいる高さによっても違うことに最近気付いたがそれは簡単な話で今まで考えなかっただけ)を見ていて以前のロールシャッハ的な見方をしなくなったのだけど、それは単純に「流れ」を見ている。
頭がからっぽになっているのが心地よいのかもしれないが、空や雲を見る合間に鳥が飛ぶのが視界に入れば見えなくなるまで追いかけたりもしていて、鳥に関して言えば「秩序から無秩序を見出そうとしている」と考えたことがある。
自然とは秩序立っているように見えてじっさいのところそれは人が自然から物質的に無秩序を排除してきたことと人の目には無秩序より秩序の方が認識しやすいことに因っていて、意識的にと書くと矛盾しているように思えるがやはり意識的にならないと無秩序を感じることはできない。
鳥の動きは鳥が自分の意思で飛びたいように飛んでいると思うのは安直な想像の結果であって、もう少し考えれば「風を読んでいる、あるいは気流に従っている」とか「羽への負担が最小限になるように飛んでいる」とか想定できて、すると最初に行こうと思っていたところと違う所にたどり着くこともあるのかなと思って、いやそもそも行き先を最初に決めるなんてことは(雛が待っているとかではなくて、特に渡り鳥なら)ないかもしれない。
少し話が逸れたけれど無秩序の話をしていたので戻すと、地上から見える鳥の飛び方(羽ばたくタイミングや飛行コースなど)は気流や羽の形状(航空力学の分野?)や鳥の種別ごとの消費エネルギィなどを考えれば説明できるのかもしれないが、僕はそれらを駆使して鳥の飛行の完全なる原理解明を目指すつもりはなくて、「飛行コースと気流は密接な関係がある」という前提のもとに飛行コースから目には見えない気流を感じ取ろうとしていて(これはベランダからの視界に広がる田んぼの稲穂が風に揺れる様をマクロにとらえようとする意識が目指すところと一致している)、恐らく小さな領域であっても(もちろん三次元的な)気流の継時変化を完全に把握することはまだコンピュータの計算能力でカバーできないはずで、それはつまり部屋から見える田んぼや山々を取り巻く気流は無秩序であってその気流と戯れるように飛び回る鳥の飛行コースは無秩序を体現していることになる。
だから鳥の飛行コースをじっと眺めているとある程度以上のところで言葉がついてこなくなる(最初から言語化しないでぼーっと見ることもあるが、そうではなく言葉で表現しようとして観測している場合)。
…話をぐーんと戻すと、川の流れも同じ様な無秩序を体現していて、それをぼーっと眺められる日常に憧れているのだ。
とだけ書けば今と変わらないと思われそうだが、ポイントは水だ…のはずだが、どうやらこの先は考えていなかったらしいので今回はパス。
これまで川の近くに住んだことがなく旅行先でしか触れ合ったことがないからちょっと頑張って想像しないといけない…と言ったそばから大学院の時に鴨川のそばに住んでいた(しかもよく散歩していた)ことを思い出した。あの時は精神状態が今ほど自由でなかった(時間は有り余るほどあったが基調がネガティブであった)ので当時に感じた印象を思い起こすのとは違う想像をした方がよいかもしれない。

話の筋を整える気が全くない文章で恐縮だけれど、川だけでなく海も入れたのは次に書こうと思っていた「港があってすぐそばから傾斜が始まって坂道に展開する街並が河口から見渡せるところ」が念頭にあったからで、そうすると「海か川」でなくて「海と川」になる。

…列挙しようとして一つ目で力尽きるのは予想外でした。。
というわけで次回以降まだまだ続きます。
保坂和志の文章を読むと、つい悠々自適の生活を想像してしまう。
それは最初は保坂氏がそういう生活をしている様であったハズなのだけど、いつの間にか自分がそんなゆるやかな時間のながれる日々を過ごす絵になっている。
きっとそれは「いつかそうありたい」という夢のようなものだと思う。
このことについては「(現実での生活を成り立たせつつ)そのように想像している限りで効果のある想像だ」と前に書いたことがあった。
今続いている社会人生活を離れるときっと落ち着かなくなる、と。

そうかもしれない。
が、どうもその「悠々自適の生活」を具体的に想像しておきたいなと最近思うようになった。
村上春樹や森博嗣のある種の本(主にエッセイか)も上と似たような感覚を自分に惹き起こしてくれるようで、要は彼らの「フリー」のそれぞれ具体的な描写を読むにつれて自分なりの絵が浮かび上がってきた、のかもしれない。
もちろんすぐに実現しようとは思わなくて、むしろ流されるままにそのような生活に落ち着けば素晴らしいことだなあという(それが実現した時の感覚の)予想があって、その予想の的中率を上げる方法の一つが想像の具体化なのだ。

なんでもかでも予測できてあたりまえ(←業績とか地震とか、実際にできるかどうかではなくて「そうあるべき」という価値観として)の世の中で「思った通り」の感覚の驚きというか清々しさはあまりないように思えるけれど、上で書いた「予想の的中」はこれとはある意味逆で、何か展開した(=事が起こった)時に「ああ、そういえばこんなことを望んでいたかもしれない」という事後認証的運命感とでも呼べるようなもののことである。
予測というのは思った通りのことが起こって安心するわけで、予測の価値観は予想外の出来事を嫌う。
それは完全に頭の中で完結した話であって、それは面白くないと思うのはまあ勝手だけど自分はそう思っていて、「頭の中だけの話ならわざわざ頭の外で確かめる必要はないんじゃないの」と思っている(そして現実の面白さは予測が外れた時にこそある)。
予測主義とはきっと身体感覚を頭の感覚(=養老氏のいう「ああすればこうなる」)に馴致させることを当為としていて、それは都市の論理でありコンピュータがその理想となる。
脳は限界を知らないから(際限の無さを志向するものだから)身体まで侵蝕しようとするのだけど、それはソフトウェアがハードウェアを食い破るようなもので、どこかで共倒れというか動作がストップすることになる。
そうして永遠に動かなくなることで無限を体現したことになる、と言えたとしてもそれはもう外からの視点で本人には知る由もなくて、だからやっぱり脳の志向(のいちばん底にあるもの)は原理的に実現不可能である。
「そゆことは君も分かってんだから少しは自重しなさい」てな説教を頭に時々してあげる(この主語はもちろん「身体」)ことで人はだましだまし生きていける、というような「身体と脳の調和」の話を義務教育でするにはいつがいいんだろう?

という話がしたかったわけではもちろんなくて。

自分なりの悠々自適の生活の想像が具体的になりつつある今、その構成要素をメモしておこうと思ったのだった。
自分なりと言いながらおそらく上述の本の要素の寄せ集めになりそうな気もするが、それは最初だけで、具体的な想像を積み立てていくうちに自分の経験のいろいろな断片が混ざり込んでいくだろうと予想している。
もちろんそれらをラベル付けして分ける意味はない。

もひとつ言ってしまえば、自分の想像に自分がどれだけ引っぱられるかな、という怖いもの見たさもある。
つまり今まで漠然としか想像しなかった理由がその想像力の影響の強さを恐れていたことにあるのかもしれない、ということだ。
それは知ってしまうと日常の懸命さとか誠実さとかがバカらしくなってしまう世の中の暗部、と機能としては同じもの(もちろんそんな大層なものではないだろう)。
ただこう考えた時、自分としてはこれは乗り越えておきたい壁に思えるのだ。
いつか「考えることから逃げない」と呟いた自分にとって。
身体の調子(正確には「健全な思考を遂行するに適した身体と脳の調和が取れている状態」)が許す時間内では何でも考えてやるという酔狂な実験は未だ続いている(もう6年目くらいかしら)。
…そだったね、書いてて思い出したわ。

ということで本題に入る前に一区切りついてしまったので、シリーズ化して次から具体化していきます。
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