幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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最近「保坂成分」が不足気味だったので補充しようと読み返す。
それは「観察する日々」でこその淡々で、躍動があるといえば頭の中にはある。
隣の部屋にきれいなお姉さんが住んでいて、彼女の飼い猫をきっかけに交流が始まり、何かが始まりそうで主人公も何かを期待しているのかといえば全然していなくて、そして実際何も起きないし、「途中から始まって、何かが変わったようで変わらないまま途中で終わる」という構成にスペクタクルのかけらもなくて、慣れた読み手も最初からそれを期待せずに淡々と読み始めて淡々と読み終える。
「生まれた時に既にゲームが始まっていて、ルールを知らないままボールを受け取って走り始める」というウチダ氏の「パッサーの話」を思い出すが、あの話は当たり前だけど普段忘れがちな原理をウィットを効かせて表現したものでキャッチーな評論といったところなのだけど、同じテーマのこの小説は油断すれば「そのまんま」、つまり人って生まれて死ぬものだという一例の提示に見える、つまり(二度目)通常思われるところの「敢えて小説として表現する意味」が見出せない。
なぜ読むのか、読んで何が得られるのか、という実利志向というか生産主義的発想を空回りさせるこの手の小説は、面白くない人にとってはほんとうに面白くない(のではと思う)。
そしてこのようなことを語る自分が何を考えているかといえば、(毎度のように最初に書こうと思ったことから盛大に逸れていると思いつつ、)恐らく実利志向とやらから抜け出そうともがいているが左足(軸足です)がどうしても「生産主義の底無し沼」から抜けなくて、しかし本気で左足を抜こうとは思っていなくて、それは沼自体は社会の地盤(言葉通りの「基礎」なんだけど沼だからゆるゆるというかぬるぬるしている)だから完全に抜くと「(社会から)宙に浮いてしまう」ことになって生活の大前提が変わってしまうからで、しかし抜こうとする動作は「沼の浅いところに留まりながら、沼には底がないことを絶えず意識し続ける」ためのフリであって止めることはできない(その一方、両足どころか体ごと浸かって下を見れば海底生物の怪しい燐光が興味を誘い、潜り始めると日光は遠のくが振り返らなければ気付くことはない。そして潜り続ける人に近づいているという確信を抱かせない海底の幻想世界は、底の無さに「終わらない欲望の連鎖」という麻薬的魅力を展開させている)。
つまり潜ると観察ができない。
それにだいいち僕は泳げない。
海は眺めるためにあるのだし、浜辺でするのは散歩かビーチバレーに限る。
もちろん日焼け止めは忘れない(肌が弱いので焼けると赤くただれて剥けるのだ)。
日焼け止めに覆われた肌が放つのは「冷やかしオーラ」だろうか。
違うな。海の外だから、「自室でクーラーつけて引きこもり」だろうか。
外にいながら、外との直接のやりとりを避ける。
(思えば「服」もそうか)
その「直接」が刺激が強いというのは、人間が変わったからではない。
人間のつくったものが人間を変える。
その作用が劇的になるのは、「頭の中の出来事」に近づいているから。
うーん、自由記述をすると高確率で「脳化社会」にたどり着いてしまうんだが。。
+*+*+*
最初に抜粋したあとに書きたかったこと。
人間って草食なんじゃん、と。
食べ物は逃げないからね。
けれど「草食動物のしつこさ」も別にあるはずで、
それはたとえば牛の反芻のようなものなのではないかな。
くっちゃくっちゃ。
執念ではなくて、必然というか、自然の摂理に従った「しつこさ」について考えてみようと思った。
それは人工の世界では「意志のあるしつこさ」に見えるのかもしれない。
そうであって、しかしそうではない。
考える作業は思いのほか難しそうだ。
そう、「思いのほか」だから。
くっちゃくっちゃ。
もきゅもきゅ。
「熱心」「勤勉」というのは美里さんが好んで猫に使う形容で、猫というのは人間とは別の部分で熱心だし勤勉になる。部屋に迷い込んできた虫を見つけたらそれを捕まえるまで目を離さずずうっと追いつづけ、虫が簞笥の陰に隠れたら出てくるまでじっと待ち、それを美里さんが捕まえようものなら、どこに隠したんだと追及でもするように美里さんの手を見ながら十五分でも二十分でも美里さんについて歩く。そういうときのしつこさはきっと捕食する側の動物に特有のもので、草食動物にはないものだろうし(食べるものが逃げていかないから)、捕食動物としての猫のしつこさは実際に飼ってみないと観察できない。この小説もいつも通り、人と猫との生活が淡々と描かれ時間も淡々と過ぎて行く。
保坂和志『猫に時間の流れる』p.35
それは「観察する日々」でこその淡々で、躍動があるといえば頭の中にはある。
隣の部屋にきれいなお姉さんが住んでいて、彼女の飼い猫をきっかけに交流が始まり、何かが始まりそうで主人公も何かを期待しているのかといえば全然していなくて、そして実際何も起きないし、「途中から始まって、何かが変わったようで変わらないまま途中で終わる」という構成にスペクタクルのかけらもなくて、慣れた読み手も最初からそれを期待せずに淡々と読み始めて淡々と読み終える。
「生まれた時に既にゲームが始まっていて、ルールを知らないままボールを受け取って走り始める」というウチダ氏の「パッサーの話」を思い出すが、あの話は当たり前だけど普段忘れがちな原理をウィットを効かせて表現したものでキャッチーな評論といったところなのだけど、同じテーマのこの小説は油断すれば「そのまんま」、つまり人って生まれて死ぬものだという一例の提示に見える、つまり(二度目)通常思われるところの「敢えて小説として表現する意味」が見出せない。
なぜ読むのか、読んで何が得られるのか、という実利志向というか生産主義的発想を空回りさせるこの手の小説は、面白くない人にとってはほんとうに面白くない(のではと思う)。
そしてこのようなことを語る自分が何を考えているかといえば、(毎度のように最初に書こうと思ったことから盛大に逸れていると思いつつ、)恐らく実利志向とやらから抜け出そうともがいているが左足(軸足です)がどうしても「生産主義の底無し沼」から抜けなくて、しかし本気で左足を抜こうとは思っていなくて、それは沼自体は社会の地盤(言葉通りの「基礎」なんだけど沼だからゆるゆるというかぬるぬるしている)だから完全に抜くと「(社会から)宙に浮いてしまう」ことになって生活の大前提が変わってしまうからで、しかし抜こうとする動作は「沼の浅いところに留まりながら、沼には底がないことを絶えず意識し続ける」ためのフリであって止めることはできない(その一方、両足どころか体ごと浸かって下を見れば海底生物の怪しい燐光が興味を誘い、潜り始めると日光は遠のくが振り返らなければ気付くことはない。そして潜り続ける人に近づいているという確信を抱かせない海底の幻想世界は、底の無さに「終わらない欲望の連鎖」という麻薬的魅力を展開させている)。
つまり潜ると観察ができない。
それにだいいち僕は泳げない。
海は眺めるためにあるのだし、浜辺でするのは散歩かビーチバレーに限る。
もちろん日焼け止めは忘れない(肌が弱いので焼けると赤くただれて剥けるのだ)。
日焼け止めに覆われた肌が放つのは「冷やかしオーラ」だろうか。
違うな。海の外だから、「自室でクーラーつけて引きこもり」だろうか。
外にいながら、外との直接のやりとりを避ける。
(思えば「服」もそうか)
その「直接」が刺激が強いというのは、人間が変わったからではない。
人間のつくったものが人間を変える。
その作用が劇的になるのは、「頭の中の出来事」に近づいているから。
うーん、自由記述をすると高確率で「脳化社会」にたどり着いてしまうんだが。。
+*+*+*
最初に抜粋したあとに書きたかったこと。
人間って草食なんじゃん、と。
食べ物は逃げないからね。
けれど「草食動物のしつこさ」も別にあるはずで、
それはたとえば牛の反芻のようなものなのではないかな。
くっちゃくっちゃ。
執念ではなくて、必然というか、自然の摂理に従った「しつこさ」について考えてみようと思った。
それは人工の世界では「意志のあるしつこさ」に見えるのかもしれない。
そうであって、しかしそうではない。
考える作業は思いのほか難しそうだ。
そう、「思いのほか」だから。
くっちゃくっちゃ。
もきゅもきゅ。
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ぼくは黙ってビールの残りを飲んで、真紀さんの言ったことがわかりにくかったからもう一度たどり直した。毎度のことだが面白かった本(小説には線を引かないことにしているので気になる箇所があれば付箋をつけるのだけど、彩り豊かに付箋が貼られた小説はそれに含まれる)は読了後に付箋箇所を読み返している。保坂氏のこの中編集(短編よりは長いのかな?)を読み返していて、他は読んですぐ意味が分かったのだけど上で抜粋した部分だけ「自分が付箋を貼ったのも頷けるが何に惹かれたのかすぐに言葉にはできない」と思ったのでとりあえず書いてみて、何か浮かんでくれば書こうと思った。
イルカの知能は人間のものさしでは計れないと、まず真紀さんは言った。言葉は光であるというヨハネの福音書の言い方を借りるなら、言葉の届かないところは”闇”だということになる。”闇”には言葉がない、つまり言語化されなければ人間にはそこに何があるかわからない。何かがあっても人間には理解できない。言葉が届かないということは、何もない状態と限りなく同じである──と、堂々めぐりのような論法だけれど意味としてはこういうことだろう。
ぼくは、このとき真紀さんの言ったことは、真紀さんがその場で考えたことではないはずだと思った。こんなこと即席に考えられるはずがない。これはイルカについてのことではなくて、真紀さん自身のことなのだろうと思ったけれどぼくは黙っていた。
「この人の閾」(保坂和志『この人の閾』)p.65-66
まず思ったのは「こんな女の人は現実にはいない」ということで、しかしこれは僕の言葉ではなくて小田嶋隆と岡康道の対談で聞いた言葉で、確か村上春樹の小説に登場する女性を指して二人で頷き合っていた記憶がある(日経BOの連載だったと思う)。もちろんそれは「実際にいたらいいんだけどなあ」という文脈の中での発言で、僕も共感したのだけど、この真紀さんについても同じ印象を持って、しかしそれに付け加えたいと思うのは「こんな女の人は現実にはいないけど、"もし言葉を持てばこんなことを言いそうな女の人"はいるのではないか」ということ。これも単なる願望かもしれないが。「言葉を持てば」と言ったのはこういうことを考える女の人なんていないという意味ではなく、頭で考えてはいても人に話すことはないだろうなと思ったからだ(そしてもし話すようなことがあるとすれば、女性同士よりは男に対して話す可能性の方がまだある)。
そして僕がなるほどと思ったのは真紀さんの話の要約の「言葉が届かないということは、何もない状態と限りなく同じである」という部分だ。これがとても実際的な考え方であるなと、そしてこれが男女の違いの一つなのだろうなと思う。これに対して、言葉が届かなくとも届けようとした自分の努力は認めたいみたいな考えは「女々しい考え方」だと言いたくなるけれど、きっとこれは「"女々しい男"の考え方」なのだ。印象で話を進めるとややこしいけれど、きっと男らしさ、女らしさは昔と今とで違っていて(まあそれは当然だろう)、加えて女らしさと「女性性」の違いも新たに考えなくてはならなくなったのだと思う。社会的性差と生物学的性差、と言い換えれば意味はすっきりするがなんだか即物的な気もする(「社会的」を「即物的」というのも変か?では誰なら変でないと言うだろう?…と考えると余計ややこしくなるのでやめよう)けどそれはよくて、両者の差を意識するようになるのは健全なことで、それは学問が越境的に機能し始めたことを意味する。大きく言えば要素還元主義が「生そのもの」から離れ過ぎたことの揺り戻しである。
全然違う話になっていたので戻して、上の「こんな女の人はいない」という発言を掘り下げてみたいのだけど、まずこれは(ある系統の)男性の願望の裏返しであることは書いたが、これとは別に、この発言は女性がするべきもののようにも思うのだ。なぜかといって、たとえば真紀さんのような書かれ方をした女の人が実際にいるなあと男性に想像させるものだとして、女性はそのような想像の仕方をしないからだ。言い換えると、女性は実際の人物と小説の(つまり想像上の)人物を一緒にはしない。…ちょっと微妙な話だが、僕の想像入り交じる経験によれば、男は想像を現実に混ぜ合わせる傾向があるのに対し女は想像は現実と全く別ものと捉える傾向がある。この男と女をそれぞれ男性性、女性性と言い換えたいと思うのは、この傾向が生物学的性差に根ざすからだ。それは簡単に言って「脳と身体の関係の密接さの差」だ。
この生物学的性差は乗り越えようがなくて、それは「男女間での共感」はある程度以上は望めないということで、「お互いを理解する」とは「同じ感覚を共有する」ではなく「違いを認め合う」ことで、女の人はこんなこと言わないし考えるまでもなく分かっているのだけど、真紀さんなら三沢君(「この人の閾」の語り手)に言うかもしれないし、そんな真紀さんのような女性を僕は「現実にいるかもしれない」と思い、それには多分の願望が含まれているが、男にとってはその願望も含めての現実がある。前に僕が「男は身体が単純だから頭は複雑でいる方がバランスがとれる」と書いたことの例はひとつここにあると言ってよくて、しかしこれがバランスがよいと示すことがそう簡単であるとも思えない。
+*+*+*
回文は往々にして怪文なりき。
羽生善治氏の著作抜粋だけど保坂氏のタグをつけている。
保坂氏の興味があってはじめて羽生氏の思想に興味がわいたから。
こういうリンクで本を読むと、視点が安定するのがいい。
「保坂氏の琴線に触れるものを羽生氏が持っている」という情報ひとつで、
保坂氏の本を読むのと同じように羽生氏の本を読むことができる。
もちろん最初から視点が固定される弊害もあるかもしれない。
けれど「今の自分の興味を掘り下げていく」方向性で読むにおいては、
得られるものの方が多いと思っている。
タグの付け方はあまり考えてなかったので、その場に応じて意味を加えていこう。
+*+*+*
現代社会における「消費者」から、もちろん逃れようはないのだけど、思想的な立場として離れていたいという日常的な思い(それは「いつもそのことについて考えている」というより深くて、「日々の行動指針としてそうである」ということ)に共鳴したのだ。
この言葉を僕は「需要側としての必要・不必要を見分ける力につながる」と捉えた。
だからここでの供給サイドというのはモノを売る立場ではなくて、自分に必要なものを自分で用意するスタンスのことなのだ。
腹が減っていて、懐手で食べ物が並んでいれば、好きなものから満腹になるまでどんどん食べていくだろう。
けれど食材の調達から調理・配膳・片付けまで自分でやるとなれば、そして食うために生きるのでなく人生の中で数あるうちの一場面として食事を捉えているならば、食べ物の種類や量は自ずと決まってくるはずだ。
情報はいくら溜め込んでも膨満感に苦しむことが(表面的には)ないために、「情報メタボ」は通常のメタボよりたちが悪い。
あるいは「膨満感からくる虚脱感」は両者に共通してあって、後者ではそれが意識下から忍び寄ってくるからかもしれない。
「需要側としての必要・不必要」は初めから分かっているわけではない。
新しい情報や知識に自分が触れるその都度の判断があって、その判断を適切に行うことで必要と不必要を見分けることになる。
新しい情報や知識を実際に自分で使ってみる経験がその力を養うことにつながる。
それを使って創造する。
本を読んでばかりでアウトプットをしないことを「情報を溜め込む」と言うのはたやすいけれど、読んだ分だけ書けばいいというものでもない。
同じ本でも、読む時期によって心の琴線に触れたり、自分の中を素通りしたりする。
”必要な情報・知識というのは日々刻々と変わってゆく”というのはこのことで、タイミングが合った時に「その情報を心に留めておく」から「自分なりの表現でアウトプットしておく」までの”拾い上げ”のグラデーションがある。
上記の力とは、僕にとっては読書が自分の血となり肉となるように”拾い上げる”力のことだ。
だから、この力を発揮するための技術を別枠で身に付けておくことも必要だ。
”第一のプロセス”、”第二のプロセス”のそれぞれを具体的な情報の選別・抽出作業に言い換えてみると、前者の「豆の挽き具合」は情報の細分化、「豆のブレンド」まで考えれば選別した情報の組み合わせ方になり、後者の「コーヒー液の抽出」は情報から必要な要素を取り出すことになるだろうか。
それはいいのだけど、僕が「おお!」と思ったのはこの両者が「まったく異なるプロセスである」という指摘だ。
まだうまく想像できていないのだけど、膨大な情報の渦の中から一掴みを選び、自分が必要と思われる要素を抽出し、形を変えてアウトプットするまでに、考え方のまったく異なるいくつかのプロセスがあるのだ。
それらはひとつにまとめることができないというか直線的でないというか、それぞれ脳の別のところを使っているのだろう、きっと。
何が言いたいのかというと…とにかく複雑だ、と。
きっとこのプロセスの組み合わせの複雑さが、(単なる消費でなく)情報を創造につなげることの魅力になっている。
そして何とか言いたいことを正確に言おうとすると、往々にしてアポリアに達する。
もちろん「これで言い切った」ではなく「ここまでしか言えない」ということ。
ある地点から、言葉を継ぎ足すことが迂回以外のものでなくなる。
ほとんどの新書はその「迂回」まで書くスペースはないのだけれど。
保坂氏の興味があってはじめて羽生氏の思想に興味がわいたから。
こういうリンクで本を読むと、視点が安定するのがいい。
「保坂氏の琴線に触れるものを羽生氏が持っている」という情報ひとつで、
保坂氏の本を読むのと同じように羽生氏の本を読むことができる。
もちろん最初から視点が固定される弊害もあるかもしれない。
けれど「今の自分の興味を掘り下げていく」方向性で読むにおいては、
得られるものの方が多いと思っている。
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情報化社会を上手に生き抜いてゆく方法は、供給サイドに軸足を置くことだと思う。この「供給サイドに軸足を置く」という言葉が自分の中に強く響いた。
自分自身は常に消費サイドにいて消費を続けているわけだから、自主的に、いや、半ば強制的にでも出力を上げていかないと、個人としても組織としても需給バランスを崩してしまうのではないかと考えている。
ずっと情報ばかり食べていると、ふと気がついた時、”情報メタボ”になっている可能性があるのだ。
(…)
必要な情報・知識というのは、日々刻々と変わってゆくものだから、大胆に捨ててしまい、必要なタイミングで拾い上げればいい。
そして、拾い上げた情報を基本に新たな創造をして、供給側に回るわけである。
羽生善治『大局観』p.126-127
現代社会における「消費者」から、もちろん逃れようはないのだけど、思想的な立場として離れていたいという日常的な思い(それは「いつもそのことについて考えている」というより深くて、「日々の行動指針としてそうである」ということ)に共鳴したのだ。
この言葉を僕は「需要側としての必要・不必要を見分ける力につながる」と捉えた。
だからここでの供給サイドというのはモノを売る立場ではなくて、自分に必要なものを自分で用意するスタンスのことなのだ。
腹が減っていて、懐手で食べ物が並んでいれば、好きなものから満腹になるまでどんどん食べていくだろう。
けれど食材の調達から調理・配膳・片付けまで自分でやるとなれば、そして食うために生きるのでなく人生の中で数あるうちの一場面として食事を捉えているならば、食べ物の種類や量は自ずと決まってくるはずだ。
情報はいくら溜め込んでも膨満感に苦しむことが(表面的には)ないために、「情報メタボ」は通常のメタボよりたちが悪い。
あるいは「膨満感からくる虚脱感」は両者に共通してあって、後者ではそれが意識下から忍び寄ってくるからかもしれない。
「需要側としての必要・不必要」は初めから分かっているわけではない。
新しい情報や知識に自分が触れるその都度の判断があって、その判断を適切に行うことで必要と不必要を見分けることになる。
新しい情報や知識を実際に自分で使ってみる経験がその力を養うことにつながる。
それを使って創造する。
本を読んでばかりでアウトプットをしないことを「情報を溜め込む」と言うのはたやすいけれど、読んだ分だけ書けばいいというものでもない。
同じ本でも、読む時期によって心の琴線に触れたり、自分の中を素通りしたりする。
”必要な情報・知識というのは日々刻々と変わってゆく”というのはこのことで、タイミングが合った時に「その情報を心に留めておく」から「自分なりの表現でアウトプットしておく」までの”拾い上げ”のグラデーションがある。
上記の力とは、僕にとっては読書が自分の血となり肉となるように”拾い上げる”力のことだ。
だから、この力を発揮するための技術を別枠で身に付けておくことも必要だ。
有益な情報を抽出するためのプロセスは、コーヒー豆からコーヒーを創るのに似ている。まず、コーヒーを粉上にする作業(第一のプロセス)、次に、フィルターをかけ、お湯を注ぐ作業(第二のプロセス)。まったく異なる二つのプロセスを通す事によって、抽出されるものが有益な情報になるのではないかと考えている。コーヒーが好きなのでこの喩えが気に入った。
同上 p.118-119
”第一のプロセス”、”第二のプロセス”のそれぞれを具体的な情報の選別・抽出作業に言い換えてみると、前者の「豆の挽き具合」は情報の細分化、「豆のブレンド」まで考えれば選別した情報の組み合わせ方になり、後者の「コーヒー液の抽出」は情報から必要な要素を取り出すことになるだろうか。
それはいいのだけど、僕が「おお!」と思ったのはこの両者が「まったく異なるプロセスである」という指摘だ。
まだうまく想像できていないのだけど、膨大な情報の渦の中から一掴みを選び、自分が必要と思われる要素を抽出し、形を変えてアウトプットするまでに、考え方のまったく異なるいくつかのプロセスがあるのだ。
それらはひとつにまとめることができないというか直線的でないというか、それぞれ脳の別のところを使っているのだろう、きっと。
何が言いたいのかというと…とにかく複雑だ、と。
きっとこのプロセスの組み合わせの複雑さが、(単なる消費でなく)情報を創造につなげることの魅力になっている。
そして何とか言いたいことを正確に言おうとすると、往々にしてアポリアに達する。
もちろん「これで言い切った」ではなく「ここまでしか言えない」ということ。
ある地点から、言葉を継ぎ足すことが迂回以外のものでなくなる。
ほとんどの新書はその「迂回」まで書くスペースはないのだけれど。
選んでいるのと同時に、たくさんのことを排除していて、ユニークなこと、変わったことを考えたり、試したりする機会が減ってしまうのではないかと思うこともある。
検索は検索で非常に有効・有能なツールであることは間違いないが、それと同時に、自分で責任を以て懸命に選択をすることも大事だ。
(…)
検索をかけながら、検索の世界からは逃げて行く、そんな矛盾したテーマを眼前に突き付けられているような気がしてならない。
同上 p.121-122
工藤さんのいう、「善良な人」について。
これも『草の上の朝食』からの抜粋。
これは「ぼく」が、会社から抜け出してよく行く喫茶店のウェイターをしていた工藤さんを夕食に誘って、初めて二人で会話する場面。
ここでの「善良」という表現にぼくは強く共感したのだけれど、同じような人のことをぼくは「やさしい人」と呼んでいるのだった。
工藤さんは最後で「嫌い」とまで言っているが、これは一般的な印象として解釈すべきでない表現で、つまり文字通り私的な感覚に基づいた発言で言い換えれば「自分とは合わない(相性が悪い)」と言っている。
ここには「自分は『善良な人』ではないし、なれない」という自覚(あるいは多少の負い目)がある。
(と書いて、この「負い目」の認識が工藤さんのような性質の人間の多くにあったとして、それがじっさいに頭の中で影響力を持つのは男だけだろうなと、男である最近のぼくは思う)
「善良な人」あるいは「やさしい人」というのは、それが自分にとっても相手にとってもいいことだと思ってそのように振る舞う。そう振る舞うのが自然で、自然なのがいいことだと思っている。だからこそ「ぼく」は単純とか素朴という言い換えをしたのだろうけど、この会話が示す通り「ぼく」も工藤さんも「善良な人」ではない。少し後で工藤さんが「ぼく」のアパートにやってきてアキラや島田など部屋の面々を見た時に、「ぼく」は(それにきっと工藤さんも)彼らを「善良な人」だと認識するような場面があるが、工藤さんはだんだん彼らに溶け込み、後には自分から「ぼく」の部屋にやってくるようになる。
「善良な人」が嫌いと言いながら彼らと親密にもなれる意味はいくつかあって、ひとつは上で言い換えた「相性の悪さ」というのが、個々に相対した時のことを言っているのではないか。「善良」という性質は、場の性質としては良きものだが個人の性質としては(「善良な人」でない人間にとっては)好ましからぬものだと工藤さんは思っているのではないか。そして「善良な場」に居心地の良さを認めた工藤さんは(主にはよう子の影響によって)変わり始め、「ぼく」はそれに少し寂しさを感じながら仕方ないと思う。(この「仕方ない」という感覚がぼくは好きで、村上春樹の小説の「やれやれ」と通じるものがある。「やれやれ」が説明的でない分「仕方ない」が分析的に見えてしまうが、その分析に登場人物がそれほどこだわっていないところ(というのはどんどん分析を深く掘り下げはするのだけど、決して人に無理やり納得させようとすることがなく、というかそんな動機がまず存在しないということ)こそが保坂小説のいいところで、村上氏と保坂氏のどちらも「頭でっかちな男が(頭を懐柔させながらも)感覚で行動する理想型」を示してくれていると僕は勝手に思っている)
きっと「ぼく」も工藤さんも考え過ぎで、能動的にそうしたいとはあまり思わないが、時にはなにも考えずゆったりしたいと思ってしまうのだろう。この「考え過ぎ」という状態は女よりは男の方が安定していて、だから「ぼく」は安定しているし、常に流されながら自分が揺らぐことがない。女である工藤さんは「考え過ぎ」が自分のデフォルトであっても時にそれから解放される糸口を探してはいて、それを見つけたところで本作が終わっていると思うのだけれど、きっとそれは一時的なもので、工藤さんは満足したら一人(あるいは二人)に帰っていく。もちろん「ぼく」の部屋に二度と戻ってこないことはなく、「良い"腰掛け場所"を見つけた」ということなのだろう。
とここまで書いて別に思い出すことがある。
最近単純と複雑について考えたことがあって、男は身体が単純だから頭は複雑でなくてはならない一方で女は身体が複雑だから頭は単純な方が良い、という認識が妥当なものだと思い始めている。
それを「だから単純と複雑は惹かれ合う」と言うと飛躍というか別の話になってしまうけれど、この認識の妥当性は「頭と身体が相反するもの(論理的に矛盾するもの)である以上、それぞれの立場としても矛盾させておいて両者のバランスを考えるのがよい」という養老先生の考え(に刺激されてぼくが勝手に作った話かもしれないが)に担保されると考えられる。
複雑は単純に染まりたくはないが単純を必要とはしていて、自らの安定のために「解放弁」として近くに居てもらいたい、ということだと思う。
気楽に集っているようにしか見えない4人+1人(ゴンタ)+1人(工藤さん)が居る「ぼく」の部屋という場には「気楽に過ごす技術がある」という解説者の論とも繋がるような気がする。
この解説(石川忠司という人が書いている)がまた凄いことを書いていて、文庫本の解説で久しぶりに「おお!」という内容だったのだけど、抜粋に繋がる言葉が出てこなかったので今回はやめときます。
僕はまだ中年ではないしね(ふふふ)
これも『草の上の朝食』からの抜粋。
「だからねえ、そういう善良な人っていうのは、自分が機嫌悪いときは機嫌悪い顔してて、うれしいときははしゃいじゃうの。
感情がすごく素直に出ちゃう人っているでしょ? それで自分ばっかりはしゃいじゃうんだけど、まわりはしらけるの」
「それは単純って言うんじゃないか?」
「単純、ーー? あたしは違うと思う」
「じゃあ、素朴って言うのは?」
「素朴、ーー? それならちょっといいけど、やっぱりあたしは善人がいい」
「ーー、で『善良な人は困る』」
「ええ、ーー。もっとはっきり言うと、嫌いなの」
p.129-130
これは「ぼく」が、会社から抜け出してよく行く喫茶店のウェイターをしていた工藤さんを夕食に誘って、初めて二人で会話する場面。
ここでの「善良」という表現にぼくは強く共感したのだけれど、同じような人のことをぼくは「やさしい人」と呼んでいるのだった。
工藤さんは最後で「嫌い」とまで言っているが、これは一般的な印象として解釈すべきでない表現で、つまり文字通り私的な感覚に基づいた発言で言い換えれば「自分とは合わない(相性が悪い)」と言っている。
ここには「自分は『善良な人』ではないし、なれない」という自覚(あるいは多少の負い目)がある。
(と書いて、この「負い目」の認識が工藤さんのような性質の人間の多くにあったとして、それがじっさいに頭の中で影響力を持つのは男だけだろうなと、男である最近のぼくは思う)
「善良な人」あるいは「やさしい人」というのは、それが自分にとっても相手にとってもいいことだと思ってそのように振る舞う。そう振る舞うのが自然で、自然なのがいいことだと思っている。だからこそ「ぼく」は単純とか素朴という言い換えをしたのだろうけど、この会話が示す通り「ぼく」も工藤さんも「善良な人」ではない。少し後で工藤さんが「ぼく」のアパートにやってきてアキラや島田など部屋の面々を見た時に、「ぼく」は(それにきっと工藤さんも)彼らを「善良な人」だと認識するような場面があるが、工藤さんはだんだん彼らに溶け込み、後には自分から「ぼく」の部屋にやってくるようになる。
「善良な人」が嫌いと言いながら彼らと親密にもなれる意味はいくつかあって、ひとつは上で言い換えた「相性の悪さ」というのが、個々に相対した時のことを言っているのではないか。「善良」という性質は、場の性質としては良きものだが個人の性質としては(「善良な人」でない人間にとっては)好ましからぬものだと工藤さんは思っているのではないか。そして「善良な場」に居心地の良さを認めた工藤さんは(主にはよう子の影響によって)変わり始め、「ぼく」はそれに少し寂しさを感じながら仕方ないと思う。(この「仕方ない」という感覚がぼくは好きで、村上春樹の小説の「やれやれ」と通じるものがある。「やれやれ」が説明的でない分「仕方ない」が分析的に見えてしまうが、その分析に登場人物がそれほどこだわっていないところ(というのはどんどん分析を深く掘り下げはするのだけど、決して人に無理やり納得させようとすることがなく、というかそんな動機がまず存在しないということ)こそが保坂小説のいいところで、村上氏と保坂氏のどちらも「頭でっかちな男が(頭を懐柔させながらも)感覚で行動する理想型」を示してくれていると僕は勝手に思っている)
きっと「ぼく」も工藤さんも考え過ぎで、能動的にそうしたいとはあまり思わないが、時にはなにも考えずゆったりしたいと思ってしまうのだろう。この「考え過ぎ」という状態は女よりは男の方が安定していて、だから「ぼく」は安定しているし、常に流されながら自分が揺らぐことがない。女である工藤さんは「考え過ぎ」が自分のデフォルトであっても時にそれから解放される糸口を探してはいて、それを見つけたところで本作が終わっていると思うのだけれど、きっとそれは一時的なもので、工藤さんは満足したら一人(あるいは二人)に帰っていく。もちろん「ぼく」の部屋に二度と戻ってこないことはなく、「良い"腰掛け場所"を見つけた」ということなのだろう。
とここまで書いて別に思い出すことがある。
最近単純と複雑について考えたことがあって、男は身体が単純だから頭は複雑でなくてはならない一方で女は身体が複雑だから頭は単純な方が良い、という認識が妥当なものだと思い始めている。
それを「だから単純と複雑は惹かれ合う」と言うと飛躍というか別の話になってしまうけれど、この認識の妥当性は「頭と身体が相反するもの(論理的に矛盾するもの)である以上、それぞれの立場としても矛盾させておいて両者のバランスを考えるのがよい」という養老先生の考え(に刺激されてぼくが勝手に作った話かもしれないが)に担保されると考えられる。
複雑は単純に染まりたくはないが単純を必要とはしていて、自らの安定のために「解放弁」として近くに居てもらいたい、ということだと思う。
気楽に集っているようにしか見えない4人+1人(ゴンタ)+1人(工藤さん)が居る「ぼく」の部屋という場には「気楽に過ごす技術がある」という解説者の論とも繋がるような気がする。
この解説(石川忠司という人が書いている)がまた凄いことを書いていて、文庫本の解説で久しぶりに「おお!」という内容だったのだけど、抜粋に繋がる言葉が出てこなかったので今回はやめときます。
僕はまだ中年ではないしね(ふふふ)
『草の上の朝食』(保坂和志)を非常に楽しく読んだ。
読み終えて、付箋箇所を読み返して、書きたくなったことを以下に。
自分が部屋を眺めるのではなく、「部屋が自分を見ている」という感覚。「見る」よりは「認識する」だろうか。
(アフォーダンスと通じるものがありそうだ)
部屋が人に与える影響というのが直接的なものではなく、部屋自体が部屋にいる人との関係性を成り立たせていて、その関係性が人に影響を与える…?
ある一つの部屋に1人でいる時と大勢でいる時に居心地が違うのは、部屋そのものは変わっていないが部屋と部屋にいる人との関係性が変わっているからだ、、
それを「自分以外の部屋にいる人」を部屋の構成としてカウントする認識とどう違うのか、と言われれば、人はやっぱり部屋ではなくて人なのだ、と?
なにが言いたいのか。
おそらくこの辺の話は『カンバセイション・ピース』で保坂氏が書こうとしていたことのはずで、それとの関連で思い出したのか一つだけ加えておくと、「大勢の人がやってきて、帰った後の部屋の雰囲気」というのがヒントになるのかな、と。
がらんとしたその時の部屋の空気は、大人数で騒いでる間に「大勢との関係のつけ方を成り立たせた」部屋がまだその関係性を残留させているからで、その関係性は自分一人とではつり合わない。
こういう認識で「部屋(ひいては家)の存在感」が増すことになるだろう、と言えば散文的になるが。
…小説の力を感じざるを得ないテーマだな。
読み終えて、付箋箇所を読み返して、書きたくなったことを以下に。
「四人が起きているあいだは部屋が四人で足りてるって思ってるんだけど、寝ちゃったらどうなのかってーー。
(…)ーー部屋とかいつも歩いてる風景とか、そういうのってどれくらいこっちが支配してるのかっていうか、こっちの感覚が届いているのかっていうか、(…)
いつもいる場所に対して人がどういう関係のつけ方をしているのかっていうのを、映像と音で撮れるかどうかわからないけどーー、やっぱり撮りたいと思ってるから、とにかくまずすべてのシチュエーションを撮ることにしてみようーーって。
ーー誰だったか忘れちゃったけど、写真の初期の頃に、街の様子を写真に撮ってみたら自分がそのとき写そうとしたものより、そのときには気がついてなかったものの方におもしろいと思うのが写っていたーーっていうのがあったけど、その感じって今でも変わってないと思うし、ーー」
p.139-140
自分が部屋を眺めるのではなく、「部屋が自分を見ている」という感覚。「見る」よりは「認識する」だろうか。
(アフォーダンスと通じるものがありそうだ)
部屋が人に与える影響というのが直接的なものではなく、部屋自体が部屋にいる人との関係性を成り立たせていて、その関係性が人に影響を与える…?
ある一つの部屋に1人でいる時と大勢でいる時に居心地が違うのは、部屋そのものは変わっていないが部屋と部屋にいる人との関係性が変わっているからだ、、
それを「自分以外の部屋にいる人」を部屋の構成としてカウントする認識とどう違うのか、と言われれば、人はやっぱり部屋ではなくて人なのだ、と?
なにが言いたいのか。
おそらくこの辺の話は『カンバセイション・ピース』で保坂氏が書こうとしていたことのはずで、それとの関連で思い出したのか一つだけ加えておくと、「大勢の人がやってきて、帰った後の部屋の雰囲気」というのがヒントになるのかな、と。
がらんとしたその時の部屋の空気は、大人数で騒いでる間に「大勢との関係のつけ方を成り立たせた」部屋がまだその関係性を残留させているからで、その関係性は自分一人とではつり合わない。
こういう認識で「部屋(ひいては家)の存在感」が増すことになるだろう、と言えば散文的になるが。
…小説の力を感じざるを得ないテーマだな。
もっとも、そういう臨床的に単純化された状態をして人間を物質的存在であると捉え、物質だから単純な存在だと考えたいわけではなくて、”精神”とか”心”とか呼ばれているものを電気的反応と化学的反応の集積ないし総体として捉えようが霊的な何ものかと捉えようが、そこで起きていることの複雑さに変わりはなくて、むしろ、”霊的”と呼ぶときに一括りにされてしまいがちないろいろなことが、物質的に記述しようとしていけば緻密になるというのが俊夫の考えで、その考え方でいうなら俊夫にとって、”霊的”と名づけることが世界を単純化することで(”霊的”でなく他の呼び名でもいいが)、物質性にこだわることがこの世界の複雑さに釣り合うことだった。
保坂和志『残響』p.112-113
この部分はまさに保坂氏が文章を書く上で一貫している態度で、「もっと解析的に現象を記述していくことが文学の生きる道ではないか」と『アウトブリード』にも書いていた。
じっさいその通りだと思うし、単純化がいろいろな悪影響を及ぼしているとも思うのだけど、この言い方は容易に反転するものだとも思った。
すなわち、現象を要素還元し物質的に記述していくことが「記述できることが全て」という態度に硬化してしまうこともあり、科学の言葉で語れない現象を霊的なものと捉えることで「言葉にできないもの」の存在を認める態度もあるということ。
こう考えると本質は、科学か宗教かではなくて、とりあえず世間一般で枠組みとして固まっている「科学」および「宗教」というツールを実際にどう使いこなしていくかということになる。
これがタイトルの含意で、タイトルの前段はつまり科学原理主義は宗教の一派と呼べるということ。
では後段はなにかといえば、未知を許容する、あるいは知の外の(身体的な?)存在にも目を向ける宗教は、未知を探求するという科学の一面と性質を同じくするが、一般に還元する(科学の根本的手法である「仮説の構築とその検証」とはそういうこと)態度を内包していないから科学にはならない、ということ。
教義として多人数の他者に広めることを一般への還元と呼んでよいのかもしれないけれど、宗教的体験の本質はやはり一個人の内的体験なのかなと思うので。
何が言いたかったかといえば、科学と宗教のどちらがいいかという話ではなくて、どちらの側に立っても(上では両者をツールと呼んだ)自分の目指す態度を追求することはできるということで、ついでに僕の目指す態度とは未知の探求と恒常的な変化を両立させること。
「常に変わらず変化する」という言い方が不変なのか変化なのか、とは単なる言葉遊びのようにも聞こえて、昔「計画的無計画」という言葉が好きでこの一言をこねくり回した記憶が甦ってきたのだけど、これは禅問答ではなく(いや、「本来の意味での禅問答」と言うべきか)、実践的な意味がある。
内田樹氏がいつかブログで「非原理主義を貫くには永遠の入れ子構造をまず理解する必要がある」といったことを書いていた。つまり、一つの原理にこだわらず臨機応変にという意味で非原理主義を掲げるとほどなくして「非原理主義的原理主義」として原理主義に回収されてしまう構造になっていて(頻度としては「毎週月曜の燃えるゴミ回収」くらいか)、その構造を脱するために時に原理に従い時に原理を無視する(しかも「無秩序に」←これが重要)という態度をとらねばならぬという話だったかと思う。
話がずれたけれど、要するに「自分が何を求めているか」が抽象レベルで念頭にあれば、それを追求するためのツールに惑わされることはないということ。よくいう「手段の目的化」がここでの「惑わされた結果」なのだけれど、こう書いてみてなんとなく「目的の手段化」が理想なのかな、と思い付いた。
それは具体的になんなのだ、と言われるとよく分からないが。
そう、そういえば昨日『残響』を読み終えて、今日ふせんを貼った箇所をいくつか読み返していてふと書きたくなって今これを書いている。
で、この小説は群像劇なのだけど登場人物はみんなどこか保坂氏的性質を備えていて(もちろんその表れ方は各人で異なるわけだ)、一人で喫茶店で座ってゴルフの打ちっ放し場でクラブを振る老人を見ながら延々と思考を重ねる野瀬俊夫という人物がいちばん保坂氏に近いのかなと思ったのだけど、野瀬氏の断章の最後はいつも「分からない」という言葉で締めくくられることになっていて、しかしこの「分からない」が思考の放棄ではなく「(新たな)思考の入り口に立った」ことがありありと感じられてとても楽しい。
今の自分の生活態度とフィットしているのか、「こんな生活もいいなぁ」と思わせてくれる(これは『カンバセイション・ピース』を読んでいて感じたことでもある)。
人物にしろ状況にしろ、憧れを抱くことが昔からあまりなかったのだけど、保坂氏の書き物に憧れを抱く頻度が群を抜いて高いのは、今の自分の生活が物足りないからではなくむしろ満ち足りているからかもしれないと少し思う。
そして上で言っているように、この状態は維持するものではないのだろうと思う。
大事なのは変化なのだけど、どのレベル(階層)での変化を求める(許容する)か。
そのレベルを時間に対して固定しないことも、より本質的な変化と言える。
…これが上の話の繰り返しに聞こえれば、抽象的思考と相性が良いことになる。
あと一つだけ書きたかったことがあって、それは上で科学か宗教かという話をしたけれど、文章を(それなりにまともに)書くにはどちらかの態度をとらないといけないのかもしれない。
それは読み手への伝わりやすさとか、書き手の一貫性(これがなぜか真摯さにつながってしまう)に大きく関わるから。
これを乗り越える術はないのかしらん。
+*+*+*
最初の抜粋部分を読み返して、本記事のタイトルを思い付いて、そこから保坂氏の別の本のタイトルを連想した(いや、多分この書名を先に知っていたから思い付いたのだ)。
その本の名は『魚は海の中で眠れるが鳥は空の中では眠れない』。
この本は今手元にあって、帯に「こいつ 何言ってんだ?!」と書いてある。
僕もそう思う。
そしてそう言いたい。
「突き放す」のではなく「引き寄せる」ために。
「ゴール」ではなく「スタート」として。
「不変」を守るのではなく「変化」へと開かれるために。
いつ読み始めようかな。楽しみ。。