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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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自分の書いたものを読み返していて、影について書いているものがあった。
ちょうど「とりたま」で影の話を続けていたのでこれを機会に載せておく。

といってこれは、メタファーを主題としていくつか書いた中の一つだけれど。
『海辺のカフカ』(村上春樹)に触発されて、数日にわたりこぼれた断片。
とりとめがないのだけど、「断片の中の断片」に、光るものがある。

自分で言うのも面映いが、2ヶ月以上前なのでもう他人である。
自分で書いたことに感心するということは、それは自分の中に定着してはいないということ。
ではそれが上っ面の話だったかといえばそうではなく、物語の力に因ったのだ。
それと、「まだ言い足りない何かがある」ということでもある。
もちろん量的には、言えた分が「全体(があるとして)のほんの一部」である。
自分で書いたことを何度か読み返しすことで、その残りに触れられるのかもしれない。
その残りは「最初に読んだ時に思い付いた時」から姿形を変えているが、そもそもその残りは「未来に形を変えて現われること」をあらかじめ宿命づけられていたのかもしれない。
その認識はその未来に訪れるのだが、つまり宿命性とはその意味と矛盾して、事後的に感得されることになる。

以下、抜粋と断片。

+*+*+*

「迷宮という概念を最初につくりだしたのは、今わかっているかぎりでは、古代メソポタミアの人々だ。彼らは動物の腸をーーあるいはおそらく時には人間の腸をーー引きずりだして、そのかたちで運命を占った。そしてその複雑なかたちを賞賛した。だから迷宮のかたちの基本は腸なんだ。つまり迷宮というものの原理は君自身の内側にある。そしてそれは君の外側にある迷宮性と対応している」
「メタファー」と僕は言う。
そうだ。相互メタファー。君の外にあるものは、君の内にあるものの投影であり、君の内にあるものは、君の外にあるものの投影だ。だからしばしば君は、君の外にある迷宮に足を踏み入れることによって、君自身の内にセットされた迷宮に足を踏み入れることになる。それは多くの場合とても危険なことだ」

村上春樹『海辺のカフカ』p.218-219

 森はときには頭上から、ときには足もとから僕を脅そうとする。首筋に冷たい息を吐きかける。千の目の針となって肌を刺す。様々なやりかたで、僕を異物としてはじきだそうとする。でも僕はそんな脅しをだんだんうまくやりすごせるようになる。ここにある森は結局のところ、僕自身の一部なんじゃないかーー僕はあるときからそういう見かたをするようになる。僕は自分自身の内側を旅しているのだ。血液が血管をたどって旅するのと同じように。僕がこうして目にしているのは僕自身の内側であり、威嚇のように見えるのは、僕の心の中にある恐怖のこだまなんだ。そこに張られた蜘蛛の巣は僕の心が張った蜘蛛の巣だし、頭上で鳴く鳥たちは僕自身が育んだ鳥たちなんだ。そんなイメージが僕の中に生まれ、根を下ろしていく。
 巨大な心臓の鼓動に後ろから押し出されるように、森の中の通路を進みつづける。その道は僕自身のとくべつな場所に向かっている。それは暗闇を紡ぎ出す光源であり、無音の響きを生み出す場所だ。僕はそこになにがあるのかを見とどけようとしている。僕はかたく封をされた重要な親書をたずさえた、自らのための密使なのだ。

同上 p.301


+*+*+*

2013/02/21 23:40
「投影」について。
投影は「影を投げかける」と書く。
つまり「自分の外にあるものは自分の内にあるものの投影」と言った時、「自分の外にあるもの」は「自分の内にあるもの」の「影」なのだ。
影は、その本体と比べると同じ縁取りをしているが中身が見えず、暗く曖昧にぼやけた姿をしている。
その姿は曖昧ではあるが、等しい輪郭を備えているために、影を見てその本体を連想することができる。
ただこの時の「曖昧さ」がカギで、この連想がまっすぐ影と本体を結びつけるただ一つのリンクではない理由はそこにある

この「影」は形であり構造であり、よってメタファーとなりうる。
相互メタファーとは、自分と、自分の外の事物との関係性を立ち上げる技術のことだ
両者に何かしらの共通点が見いだせれば関係が成立する。
この関係は意味とイコールで結んでよいのかもしれない。

そうか、「迷宮に足を踏み入れる」とは、「自分は今踏み入れた場所が迷宮である」という認識を伴ってはじめて発言できるのだ。そしてそれが迷宮たる所以が自分の中にある。

「世界は自分自身である」というメタファーにおいて、「自分自身である世界」の中にいる自分とは何だろうか?
しかもその自分が意思に因らず、なにかに衝き動かされているという時の自分とは?
きっと、それが「血液」なのだろう。
これは決して自我の肥大ではなく、つまり世界は自分の思い通りになるという認識の対極にある。
どちらも「世界とは自分自身である」という認識を共通にもっていながら、自我の大きさは蟻と宇宙のあいだの広大な範囲をとりうる
2013/02/22 00:06

+*+*+*

別の話になるが、その性質が対極にあると思われている二物の共通性を取り出す思考は内田樹の得意とするところだ。
最近読んだものでは、倫理の話の中で「徹底的に無私(愛他的)に振る舞う人と徹底的に自己中心的に振る舞う人は"世界がそのような人ばかりで構成されているとイヤになる"という点で選ぶところがない」といった表現があって(リンクはここ)、二項対立図式の単純性(が問題をより「こじらせる」こと)を批判するのに使い勝手が良い。
この思考は「違うと思われているものの中から同じものを見つける」という方向性を持っていて、「同じと思われているもの同士に違いを見出す」思考と逆向きだが同じ頭の使い方をしていると思う。
つまり「リンクを張る」ということなのだが(後者が分かりにくいが、二物の間に別の物(枠)を介在させると考える)…なぜこんな話をするのかといえば、上で自分が書いた最後の所(下線部)を読んで「ああ、ウチダ氏の影響を受けてるなあ」と思ったからであった。
この下線部も上の倫理の例と同じく「違うと思われているものの中から同じものを見つける」思考なのだが、この思考に慣れてくると色んな事象につながりを見つけることができる。
その見つけたつながりが一般的な認識でないことももちろん多くあって、感覚的な理解(いや、理解以前かもしれない)で満足できれば何も書き出す必要もないのだが、実は考えてみたら大嘘だったという結末も含めて自分の感覚が先行してリンクを張ったことには理由が必ずあるはずで、それを言葉にする努力は自分の感覚を発達させるはずで、言葉によるといっても論理的な正しさだけでなく「感覚そのものの鋭敏さ」も研ぎ澄まされていくと思っている。
この一つ前のブログで「併読リンク」というタグに書いた記事はこの趣旨に沿うものなのだが、そういえばパターン化してきたからか一年以上前に中断したきりである。今思えば「併読している本の間で」という自分が設定した枠がパターン化の原因だと分かるので、もっと広くそして軽く(二冊の本の抜粋となるとどうしても「重く」なるのだ)やればいいのだ。
まあ、それはぼちぼち。
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2013/02/11 11:48

『海辺のカフカ(下)』の付箋箇所を読み返している。
その途中から、メタファーについて考えている。

まず単純化していえば、「メタファーのメタファー」は「現実」になりうるのではないだろうか?

メタファーは比喩であり、抽象化でもあり具体化でもあり、現実をそれとは違うものとして表すことができる。
現実を具体的なものと考えた時にメタファーは抽象的になるだろうし、文脈や流れといったものがうまくつかみきれない現実のなかでのメタファーは具体化のはたらきを見せる。

現実と比喩の関係はおそらく「入れ子構造」として捉える見方が一般的かと思われる(と言った時のメタファーは抽象化を指すと考えられる)。
メタファーは現実の一部をくるみ、さらなるメタファーはより外側でそれらを薄く包み込む。
最初に見ていた現実はどんどん漠然としてくるが、その大きな意味や流れのようなもののイメージが姿を表してくる。
もちろんその姿は可能性の一つに過ぎない。

一方で、比喩を「現実のベクトル成分」と捉えることもできる(この時のメタファーは抽象化でも具体化でもよいように思われる)。
固定化した現実に、ある意味で「意味の失われた」現実に、方向と動きを与えるためのメタファー。
現実も本来スカラーとベクトルの両成分を持っているが、散文的な把握はスカラーを強調してしまう。
このような比喩の捉え方をしたときの「メタファーのメタファー」は、入れ子構造とは違った構造をとる。
ある地点に位置する現実が、比喩を通して別の位置に移動する。
その前後の位置を結ぶベクトルは、「現実が進んだ方向」を示す。
そして次に別の比喩を通した時に、例えばそれが最初の移動と全く逆向き(でスカラー量も等しい)であれば、二度の比喩を通じた現実が最初の地点に戻ってくることになる。
もちろん「比喩の比喩は現実となる」という理想状態を強調したいのではなく、「比喩を重ねることで(最初は離れるいっぽうだったかもしれないが)現実に近づいていく」ことがあるのだ、と言いたい。

小説とは、その存在自体がメタフォリカルなものだ。
小説の中で用いられるメタファーに、読み手は神経を研ぎ澄ませなければならない。
書物の中のものが、書物を越えて出てくる瞬間が、小説にはある。
それはたとえば、
「この世の中のすべてのものはメタファーなんだよ」と大島さんがカフカ少年に諭す時、「この世の中のすべてのもの」には佐伯さんや甲村図書館やさくらの夢だけでなく『海辺のカフカ(下)』もMacBookProもブラックコーヒーも含まれており、僕はカフカ少年と並んで、大島さんの端正な顔立ちに魅入って頷いているということ。
『海辺のカフカ(上)』を読み終え、自分で付箋を貼った箇所を読み返す。

物語の中盤、カフカ少年が私設図書館員である大島さんの兄の山小屋で想像に耽る場面に、グリーンの付箋が貼ってある。
少年は「アドルフ・アイヒマンの裁判について書かれた本」を読み終え、その後ろの見開きに、大島さんが鉛筆で残したメモを見つける。
大島さんもかつて、山小屋でこの本を読んだのだ。

メモにはこうある。
「すべては想像力の問題なのだ。僕らの責任は想像力の中から始まる。イェーツが書いている。In dreams begin the responsibilitiesーーまさにそのとおり。逆に言えば、想像力のないところに責任は生じないのかもしれない。このアイヒマンの例に見られるように」p.227

「僕らの責任は想像力の中から始まる」
そうだ、と僕も思う。
しかしこの認識は日常で人と共有されることが難しい。
それはまず想像力というものが「現実から離れたもの」とみなされて話題にされないからだが、そのような日常にいて、この言葉は僕の中で心強く響く。

その「心強く響く理由」について少し考えてみる。

この言葉は単に小説の中の表現であることを超えている。
恐らく実在の人物なのだろうけれど、イェーツという人がまず書いた言葉だ。
この言葉を大島さんが思い起こすことでメモとして記されたわけだが、それは大島さんがアイヒマンについての本を読んだからこそ記された。
大島さんがその本を読み、ナチのユダヤ人虐殺のある一つの視点による歴史を追体験し、内面化する中で、共鳴し呼び起こされたのがこのイェーツの言葉だ。
カフカ少年はその大島さんと深く通じるところがあり、そのメモを目にして、自分と同じ年くらいの時の大島さんが「尖った鉛筆を手に、本の見返しにメモを書き残す光景」をありありと思い浮かべ、そして"自分の責任"について「考えないわけにはいかない」。

「僕らの責任は想像力の中から始まる」
この言葉が僕の内面に届くまでに、イェーツという人、アイヒマンについての本を書いた人、大島さん、カフカ少年、そして村上春樹氏の5人を通過している。
後ろ3人について僕は、この言葉がいかに彼らの深いところで特別に響いているかを(『海辺のカフカ』、あるいは春樹氏の他の著作を通じて)知っている。

ここで「大島さんとカフカ少年は村上春樹が造形した登場人物であって、実在人物のようにカウントしてもよいのか」という問いが思い浮かぶ。
その問いには、僕はイエスと答える。
ある種の小説(僕は全ての小説がそうであることを願うのだが)の登場人物は、作者の把握から遠く離れている。
作者は彼らを知りたいから小説を書くのであり、小説は作者と登場人物との対話であり、「作者による登場人物の全的把握」は願いこそすれ叶うものでないことは日常生活での人間関係と何ら変わるところがない。
小説の作者とその小説の登場人物を「出所が同じ」として一つに括ることはたやすいが、その認識は恐らく小説の内容と深い関わりを持たないし、僕はそのような「お手軽な把握」を読み手の怠慢だと思う。
書き手の力量よりはむしろ読み手の想像力如何にかかっているのは、小説の作者とその登場人物の一人ひとりを「同じ重みをもった一人」として感じられるかだ。
そして僕が思うに、その感覚が強度を備えるカギは「人物造形(人となり)をその細微にわたって想像できること」よりも「(どれほどその人物についての多くの情報を得られたとしても)その人物には謎があり、その謎を魅力と感じられること」にある。

何が言いたかったのか。
言葉の重みは、その言葉を内面化した人の重みの集積による、ということだ。
ある言葉から何を感じるか、その内容は人によって様々だけれど、その様々を、その人たちの「人となり」込みでどれだけ想像できるか。
そしてそのような想像の中に、自然な形で、責任が宿る。
ここでいう責任とは、「その言葉の重みの一翼を担う者」の成員となったことによる責任のことだ。
これを「自意識過剰も甚だしい」と吐き捨ててしまえる人(世の中にはたくさんいると思う)は、永遠にこの認識にたどり着くことはできないだろう。
何せ、その通りなのだから。
「過剰なる自意識」が原動力となって、自らの想像に責任が(つまり「重み」が)生まれるのだから。
『遠い太鼓』(村上春樹)を読んでいる。
本書はイタリア・ギリシャ滞在中の氏の日記である。
ただ日記と言って、部屋を長期で借りて小説の執筆や翻訳をしており、旅行記と趣は少し異なる。

今日読んでいたクレタ島のくだりは1987年5月のことで、氏はこの年のはじめに『ノルウェイの森』をイタリアで書き終えている。
ノートや広告の裏に書きつけていた原稿を400字詰めの原稿用紙に清書する、という描写が時代の古さを表していて(考えてみればこの頃まだ僕は生まれて1年と経っていない)、クレタ島の「観光地的価値観の浸透していない長閑さ」や各国バックパッカーの特徴(ドイツ人は世界一旅好きだとかカナダ人は世界一暇だとか)といった話が現在でどこまで通用するのかわからないけれど、本書では「当時の地中海事情」をふんだんに味わうことができる。
だから小説ではないのだけれど、氏の小説と雰囲気が似たようなところがあって(同じ人が書いているのだから当然だが)、しかし現実の重みかしら(と言ってこれをノンフィクションの価値と思いたくはないのだが)文章の一つひとつに立ち止まって想像させる説得力があって、最初に手にとった時はすらりと読み通せると思ったのだが今や長編小説の趣が深い。

と書いていくと書評というか感想になっていくのだけど、最初に書きたかったのは脳内BGMのこと。
本書を読む少し前から「ゲーム音楽は脳内BGMに適しているのでは」と思い付いて、小中でよくやったゲームのサントラを聴き返していて、その流れで本書と偶然フィットしたのがバハムートラグーン(以下bl)の「砂漠の地ダフィラ」。
だいたい砂漠のBGMというとたいていのゲームでは「それっぽい曲調」になるのだけどblのは違って、乾いた風と打楽器(ボンゴだっけ?)がわずかに雰囲気を醸す程度で、きっと砂漠の曲だと言われないと分からない。
うっすら残る記憶を辿ると、blの世界では人々は宙に浮いた島に住み竜に乗っていくつもの島を行き来していて(しかし島には緑も川もあって、いちばん川下では水は重力に従い空に流れ落ちていく)、やはり砂漠のある島もあるのだけど世界の基調は「空の青」なのだ。
blで悲哀を帯びた曲に存在感があるのはストーリィのメインと言っていい人間ドラマがそうであるというだけでなく(うん、確か本当にドロドロしていた気がする。あのゲームやった人で「ヨヨ」と聞いただけで眉を顰める人は少なからずいることだろう)、茫洋と浮かぶ島々という世界観そのものを表しているからかもしれない。

という思い出話はさておき、このダフィラの曲でしばらく『遠い太鼓』を読んできて(まだ半分もいってないけど)、イメージが定着してきたな、と思っている。
耳で聞くのでなく頭で勝手に流れる音楽を僕が「脳内BGM」と呼んでいるのは、一つに読む本とBGMをくっつけて「脳内に(その本の内容の)確固とした居場所をつくろう」という意図がある。
もともと音楽というのは「ほんとうにただ聴くだけ」がとても難しいもので、それは初めてその曲を聴いた時の状況(空間的な環境や心理状態)がくっつくこともあれば曲のなりたち(生演奏やレコーディングであれば演奏される楽器が鳴るさま、歌ものであれば歌手の歌うさまあるいはその歌手からの連想あれこれ)が自然と思い浮かぶものである。
ゲーム音楽といえばさらに分かりやすく、その曲が流れていた時の場面がまっすぐ連想のベルトコンベアに乗っかってくる(そして「予め決められているように」という比喩の当コンベアの回転速度は実物と違いすこぶる速い)。
だからゲーム音楽を読書の脳内BGMに使うにはまず既定のイメージを引き剥がすのに苦労するはずで、実際やり込んだゲームなら言わずもがなのことなのだが、要はその難関をここにきて突破したように思われる、と言いたかった。
今ではこのダフィラの曲を聴けば地中海沿岸のうらさびれた街並が浮かぶ案配になっているのだ、僕の脳内は。

ということで、脳内BGMの活路が広がった記念に「今後の可能性」をメモしておく。
上記のバハムートラグーンのほかに、クロノトリガー、ロマンシングサガ3あたりが有望だと見込んでいる(以上メモ終わり)。
これがクロノクロスが△でクロノトリガーが◎だというのは、自分がやり込んだ度合いによるというだけでなく(実はクロノクロスは高校の友達にサントラを借りたというだけで本編をやったことはない。それに上では「やり込んだゲームほど元のイメージから引き離すのが大変」と書いたけどでは全くやっていないゲームの方がいいのかといえばそんなことはなくて、曲とゲームの具体的な一場面とのリンクは邪魔になるかもしれないが曲自体の雰囲気(これもやはり絵(視覚入力)なしで聴いただけよりゲームのストーリィ進行の中で絵付きで聴く方が情報量が多い)という曖昧なレベルのものは使えるし、もっと漠然と「曲に対する親密さ」の要素が実際とても大事)、実はスーファミとプレステの差と言ってよいものがある。
要するに「曲の抽象性」がクロノトリガーの方が高いのだが、つまりクロノクロスになるとBGMが楽器の生演奏に近くなる。
僕は脳内BGMは抽象的である方がよいと思っていて、その抽象的というのはファミコン時代のピコピコ系(チップチューンというのか)と生演奏系の間にある性質のことだ。
重要なのは雰囲気で、具体的なものは先にあって、その具体的なものを引き立てる機能を果たすためのスパイスは抽象的でなければならない。
「のりたまご」のふりかけだけを食べてもおいしくないのだ(おいしいけど)。
…と、既に分かりにくい話になっていると思われれば非難されそうなことを次に書くが、いちおうこれは単純化して書いたつもりで、何が込み入っていると言って実際に上でいう「具体的なもの」が何を指すかといえば例えば小説の内容の「読み手の脳内の展開」であってそれはそれで十分抽象的なのだ。

こんな話に一般性をもたせようなんて無理があるよな、と思いつつ、じっさいにその曲を頭の中で流しながらその小説を読めば感得はできるだろうと思って、去年つくったHPに自分がこれまで「聴き読み」してきて相性がよいと思ったものを列挙したりもしてきたのだが、まあ脳内BGMの件についても仕組みと呼べるものはあるはずで、小説を楽しんで読むこととは別に興味のあることではある。

+*+*+*

あ、途中書こうと思って忘れていたことなのだけど、ゲーム音楽のことを考えると思い浮かぶ友人がいて、上でも少し触れた(クロノクロスのサントラ貸してくれたのね)けど高校で2年間一緒だった彼の名はM安氏。
やたらと記憶力が良くて世界史とか暗記ものの点数が良く、数学の記述問題も暗記するというカメラ小僧的な人だったのだけど(そういえば暗記の原理は聞かなかったな…そしてカメラ小僧(小娘?)はたぶん彼ではなくM山嬢だ)、彼はセンター本番の国語で国語Ⅰをやってしまい悲惨な目に遭ったというへんなことは覚えている(というのも僕はプレセンターでそれをやって国語Ⅰ・Ⅱ42点という学年最下位をたたき出したからなのだが)。

しかし大学受験を思い出すとなんだかとても懐かしい…まだ10年も経っていないはずだけど隔世の感がある。
当時に活気づいていた種の精神的なエネルギィが今は悉く錆び付いている気がする(そしてそれをとても良いことだと根っから思える心証が「錆び付き」を裏付けている)。
当時はまだ今より人当たりが良かったはずで、それでも受験期に「逃避行動によって協調性を激しく乱す」という意味でいろんな人に迷惑をかけた記憶がうっすら残っており(そのきっかけだけは明確に覚えている。もう時効だろうし結果的によい方に転んだので言っちゃうけど、高3の冬に直ぐ後ろに座ってインフルエンザを2回も(!)うつしてくれたK東さんが僕が(受験期限定の)登校拒否になった元凶です(笑)で当時の教室の状況みたいなものを大学入ってから耳にしたのだけど、僕の授業放棄にUっとんがとても気分を害していたらしい。今更さらやけどごめんね)、そこは変わってないなと思う。
そこ、とは上に書いた根っこのさらに根っこのことで、俗っぽく言えば「追い詰められたら闘わずに逃げる」かしら。
成長して身に付けたのは「逃げ道の確保」と逃避の際の「体裁の良さ」。
いざとなれば現状からどう逃げるか、を細微にわたって想像できていれば、そもそも日常で(主に精神面での浸蝕による)逃げざるを得ない境地に陥ることがないと経験的に分かったのだった(そして「破綻の一歩手前」も十分経験たりうる)。
苦労してるのかしてへんのか…多分あんましてへんな。。

閑話休題。
M安元気かなあ、と言いたかっただけ。
今のところ栃木に飛ばされる予定はないけど、まあ関東組として何か機会があれば一杯やりたいね。
思い出となった出来事は、ぜんぶ「いい思い出」。
やれやれ。
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